第13話 毒沼の依頼
翌日、ミナたち四人がギルド受付に集まると、受付台の依頼書は最初から少し湿っていた。
紙の端が波打ち、インクの一部がにじんでいる。雨に濡れたわけではない。湿地帯から持ち込まれた報告書特有の、重くて青い匂いがした。
ミナはその紙を見ただけで、喉の奥が少し苦くなる。
毒。
水。
湿気。
疲労。
そういうものは、派手な傷よりずっと厄介だ。剣で斬られた傷は目に見える。血も出る。痛みもある。けれど毒と疲労は、本人が「まだ大丈夫」と言っている間に、体の奥へ沈んでいく。
気づいた時には、足が上がらない。
息が浅い。
判断が遅い。
そして、帰れない。
「ミナさん?」
セラの声で、ミナははっとした。
ギルドの小卓には、ガイ、リタ、セラ、そして受付職員のラウラがいる。第一部の終わりに渡された「少し難しい依頼」。その詳細説明が、今まさに始まろうとしていた。
ラウラはいつもの事務的な顔で、依頼書を指先で押さえる。
「ルシェル東の毒沼です。薬草採取路が汚染され、小型魔物の発生が確認されています。調査、発生源の特定、可能なら駆除。無理な場合は撤退して報告してください」
「毒蛾の次が毒沼?」
リタが椅子の背にもたれた。
「ギルド、あたしたちを毒処理班だと思ってない?」
「低ランク依頼で毒蛾の巣をほぼ無傷で処理した記録があります」
ラウラの返答は淡々としている。
「加えて、薬草採取者の救助依頼でも負傷者の悪化を防いでいます。毒、疲労、低体温への対応力が高いと判断されました」
評価されている。
そう思うべきなのだろう。
でもミナは、胸の奥が重くなるのを感じた。
その評価は、補助魔術師ミナ・リースに積まれている。ヒーラーではなく。治癒式に支援を混ぜ、毒の流れを見て、壊れる前に止めるミナではなく。
紙の上では、補助魔術師。
嘘の名前だ。
ガイが依頼書を覗き込む。
「危険度は」
「低から中の間です。ただし、撤退失敗が多い。魔物そのものより、足場不良と毒気による消耗が問題です」
「受ける価値はあるな」
ガイは短く言った。
セラが目を輝かせる。
「中ランクに近い依頼ですよね」
「浮かれると沈むよ」
リタがすかさず言う。
「沼だけに?」
「今のは言わない方がよかった」
セラは少ししょんぼりした。
ミナは思わず小さく笑いそうになって、依頼書の下段に目を落とした。
そこで、指が止まる。
『過去調査: 紅蓮の剣、途中撤退。
負傷者なし。ただし成果不十分。』
紅蓮の剣。
グレンたちの名前が、にじんだ紙の中にあった。
******
「ミナ?」
ガイが気づいた。
ミナは依頼書から目を離せなかった。
負傷者なし。
成果不十分。
その二つの言葉が、妙に引っかかる。
紅蓮の剣は強い。グレンの剣は速いし、イザークの火力は派手だ。カミラの矢は正確で、バルドの盾も重い。単純な討伐なら、今でも上手くやるだろう。
でも毒沼は違う。
火力で焼けば終わる場所ではない。歩くだけで体力を削る。毒気を吸えば呼吸が浅くなる。水に足を取られれば、膝と腰に負担が溜まる。
負傷者なし。
それは、目に見える傷がなかっただけではないのか。
「前回撤退理由は?」
ミナが尋ねると、ラウラは書類をめくった。
「判断遅れによる隊列崩れ、とあります」
胸の奥が冷えた。
知っている。
ミナは、その兆候を知っている。
グレンは疲れると踏み込みが深くなる。強引に前へ出て、膝に負担をかける。イザークは魔力が乱れると詠唱を速める。カミラは手首の震えを隠す。バルドは肩が痛んでも盾を下ろさない。
ミナがいた頃は、その小さな崩れを見つけて、こっそり支えていた。
今は、誰が止めているのだろう。
「気になる?」
リタの声が軽く届く。
ミナは一瞬だけ詰まり、それから頷いた。
「毒沼で判断が遅れるのは、危険です」
「旧パーティだから、じゃなくて?」
リタは笑っている。でも、目はいつものように鋭い。
ミナは答えを探した。
旧パーティだから気になる。
それは本当だ。
でも、それだけではない。毒沼で判断が遅れる危険は、誰にとっても同じだ。今の新パーティにとっても。
「どちらも、です」
正直に言うと、リタは少しだけ目を丸くした。
「ふうん。そこは濁さないんだ」
「濁すと、危険なので」
リタは肩をすくめた。
ガイは依頼書を見下ろし、低く言う。
「受けるなら、撤退の基準を先に決める」
ミナは顔を上げた。
ガイがこちらを見ている。
「ミナが危ないと言ったら下がる。俺はそうした方がいいと思う」
セラも頷く。
「私も、前に出る前に聞きます」
「本当に?」
リタがからかうと、セラは真剣に胸を張った。
「本当です。たぶん」
「たぶんが余計」
軽いやり取りなのに、ミナの胸は少し温かくなった。
聞いてくれる。
止まってくれる。
その前提で、戦いを始められる。
紅蓮の剣では、それができなかった。
******
ラウラが追加の書類を差し出した。
「今回は、通常の討伐依頼とは少し扱いが違います。発生源の特定だけでも評価対象になります。無理な戦闘は推奨しません」
「珍しいですね」
ミナが言うと、ラウラは眼鏡の位置を直した。
「最近、撤退判断の遅れによる負傷が増えています。ギルドとしても、成功率だけでなく生還率を見直す必要があります」
生還率。
その言葉が、ミナの中で小さく光った。
討伐数ではない。
倒した数でもない。
帰ってきた数。
それを評価する言葉が、ギルドの職員から出た。
嬉しいはずだった。
でも同時に、怖かった。
その流れの中心にいるのは、補助魔術師として記録された自分だからだ。
「それと」
ラウラが少し声を落とす。
「ミナさんの職業確認保留は残っています。今回も治癒魔術に近い処置を行った場合は、詳細報告をお願いします」
空気が少しだけ固くなる。
セラがミナを見た。
ガイは表情を変えない。
リタだけが、ほんの少し眉を上げた。
「詳細報告、ですか」
ミナは声が弱くなるのを感じた。
「はい。補助魔術師としての記録を整えるためです」
補助魔術師として。
その言葉が、また胸に沈む。
ミナは依頼書を受け取った。
「わかりました」
答えるしかない。
人を助けるなら、記録が残る。
記録が残れば、嘘も残る。
それでも、依頼を断る選択は浮かばなかった。
毒沼で誰かが判断を誤る前に、行かなければならない。
ラウラは追加の資料を机に置いた。
「支給品です。簡易解毒薬、湿地用の足紐、防水布、毒膜確認用の試験紙。足紐は必ず使ってください。毒沼では、靴が脱げた瞬間に撤退できなくなることがあります」
セラが足元を見下ろした。
「靴が脱げるだけで、ですか」
「靴が脱げる。拾おうとしてかがむ。手袋に毒泥がつく。立ち上がる時に足を取られる。そこへ魔物が来る。小さな事故は、湿地では一つずつつながります」
説明しているのはラウラなのに、ミナの背中にも冷たいものが走った。
小さな事故。
それは、ヒーラーが一番よく見るものだ。切り傷、捻挫、息切れ、少しのめまい。どれも一つなら大したことはない。けれど重なると、人は急に倒れる。
旧パーティでは、そういう小さな兆候を何度も拾っていた。
グレンは前を見る。イザークは魔力残量を過信する。カミラは痛みを隠す。ミナが後ろで整えて、どうにか帰っていた。
それが、今は記録の中にない。
「ミナ」
ガイが呼んだ。
「はい」
「今回、危ないと思ったら言え。早めでいい」
ミナは顔を上げた。
「早すぎるかもしれません」
「構わん。早すぎたなら、そこで考える。遅すぎるよりいい」
その言い方は、重い盾みたいに頼もしかった。
リタが試験紙をひらひらさせる。
「じゃ、あたしは道と毒膜を見る。セラは勝ちたくなったら一回深呼吸。ガイは沈む前に痩せる」
「最後は無理だ」
「努力目標」
「努力で鎧は軽くならん」
セラが真面目に頷く。
「私は深呼吸します」
「そこだけ拾うんですね」
少しだけ空気が緩んだ。
その緩みがありがたかった。怖い依頼へ向かう時、人は笑える場所を少しでも持っていないと、緊張だけで足を取られる。
ギルドを出ると、セラが少し緊張した顔で言った。
「ミナさん、毒沼って、そんなに危ないんですか」
「危ないです」
ミナはすぐ答えた。
「でも、準備して、無理をしなければ帰れます」
ガイが盾の留め具を確かめる。
「なら、帰る準備をしてから行く」
リタが笑う。
「討伐じゃなくて帰宅が目標って、いいね。地味で好き」
ミナは依頼書を抱きしめた。
紙の端に、まだ紅蓮の剣の名前が残っている。
前回撤退理由。
判断遅れによる隊列崩れ。
ミナはその一文をもう一度思い出した。
失敗は、いつも派手な音を立てるわけではない。
剣が折れる。血が飛ぶ。誰かが倒れる。そういうわかりやすい瞬間の前に、たいてい小さな沈黙がある。
返事が半拍遅れる。
足音が少し重くなる。
笑い方が雑になる。
大丈夫です、と言う声が、いつもより軽くなる。
旧パーティでミナが見ていたのは、そういう小さな崩れだった。
今度は、見えているのに黙らない。
遅れる前に止める。
それが、今回の仕事だ。
******
この話が良かった、参考になったと思ったらお好きな数だけつけてください!
また見たい!と思ったらブックマークもお願いします!




