第一話:願い
赤い月は、“不吉”の象徴だった。
古くから教会は語る。
血月が昇る夜、災厄は目を覚ますと。
巨大なステンドグラスへ、深紅の月光が差し込む。
静寂に包まれた大聖堂。
その中心で、一冊の禁書が開かれていた。
古びた羊皮紙。黒く滲む文字。
そこに記された名を見て、誰もが息を呑む。
《黒翼の始祖》
クロエ・ヴァルナ・レイヴン
教会が千年追い続ける、最悪の吸血鬼。
存在そのものが災厄。
記録では、都市を滅ぼし、国家を沈め、
無数の命を夜へ変えた怪物。
そして。
その始祖が、再び観測された。
「対象座標を確認」
静かな声が響く。
長い銀髪の奥へ、黒いメッシュが混ざる青年。
教会執行官、ノクティス・アルバ・オウルだ。
神父は震える声で答えた。
「旧十三番街です……先遣隊との通信は、
すでに途絶しています」
「生存率は」
「……ゼロです」
沈黙。
誰も顔を上げられない。
始祖――その単語だけで、恐怖は十分だった。
「教皇猊下より命令」
黒聖装の女が前へ出る。
セレナ・オブ・シディアン。
鋭く冷たい瞳を持ち、感情を切り離した
教会の剣と呼ばれる存在だ。
「黒翼の始祖を確認次第、即時討伐。
必要であれば、区域ごと焼却処分」
空気が凍る。
だが、誰も異議を唱えない。
始祖とは、それほど危険な存在だった。
壁際で、一人の青年が静かに口を開く。
銀髪に、淡い光を映す瞳。
教会直属観測執行者、エル・ルミエール・セオリアだ。
「観測記録に齟齬があります」
セレナが問う。
「内容を」
「始祖存在値に対し、被害規模が不足しています。
旧十三番街は、すでに壊滅していても不自然ではない
数値なのです」
神父たちの顔色が一斉に変わる中で
エルだけは表情を崩さない。
まるで感情が存在しないかのように、
淡々と言葉を続ける。
「追加報告。対象周辺にて、低位吸血種の活動痕を複数確認。
にも関わらず、民間被害が極端に少ない状況です」
セレナが眉をひそめる。
「……何が言いたい」
「現状の観測結果から推測すると、何者かが意図的に被害を抑えている可能性があります。あるいは――始祖本人に、人間への敵対行動が見られないという可能性も」
空気が止まる。次の瞬間、セレナが即座に切り捨てるように言った。
「あり得ない。始祖は災厄だ。情けをかける理由など、
どこにもない」
エルは否定しない。ただ、無表情のまま告げる。
「私はただ、観測結果のみを報告しています」
その時だった。
ノクティスの瞳が、わずかに揺れる。
誰にも気づかれないほど小さな変化。
だが確かに、心の奥を何かが掠めた。
――懐かしい。
理由もなく、そんな感覚が胸を満たす。
赤月は、静かに夜を染め続ける。
災厄は、すぐそこまで迫っていた。
その頃、旧十三番街。
薄暗い路地裏では、一人の少女がしゃがみ込んでいた。
足元には一匹の猫。
少女の手には、食べかけのパンが握られている。
「だからそれ、私のご飯なんだけどなぁ……」
猫は少女の言葉など気にせず、前足でパンのかけらを押さえ、嬉しそうに食べ続けている。
少女は困ったように、だが柔らかく笑った。
「まぁいっか」
どこにでもいる、普通の少女のように見える。
だが、誰も知らない。
彼女こそが、教会が千年もの間追い続けてきた
“黒翼の始祖”――クロエ・ヴァルナ・レイヴン
その人であることを。
そして彼女自身もまだ、自分の背負う運命や、本当の名前の意味を知らないまま、今を生きていた。
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