第十六話:忘れられた名前
朝だった。
雨は止み、
十三番街には薄い光が差し込んでいる。
時計塔上階。
クロエは、ゆっくり目を開けた。
「……ん」
ぼんやりした視界。
柔らかな毛布。
見慣れた天井。
そして。
「おはようございます」
ベッド脇に座る、黒髪の青年。
クロエは数秒沈黙し。
「……ノクス様?」
「はい」
「なんでいるの?」
「護衛です」
「寝てる時も?」
「当然です」
クロエは少し笑った。
「過保護」
ノクスは否定しない。
クロエは身体を起こしかけ――
止まる。
昨夜の記憶。
赤い月。
血。
吸血。
ノクティス。
「……っ」
顔が赤くなる。
ノクスが静かに視線を逸らした。
「落ち着いてください」
「無理ぃ……!」
クロエは布団へ顔を埋めた。
「わ、私、噛んだよね!?」
「はい」
「うわぁぁぁぁ……!!」
下階。
レグルスが吹き出した。
「朝から騒がしいな」
ノクティスは、静かに紅茶を飲んでいた。
だが。
耳だけ、少し赤い。
セレナがじっと見る。
「……何故赤くなる」
「なってません」
「なっている」
エルだけが通常運転だった。
「昨夜の吸血行動により、血統同期率が上昇」
「対象ノクティス、始祖血統との接続を確認」
ノクティス。
「言い方」
エルは気にしない。
「また、対象クロエの精神安定率も上昇しています」
セレナが腕を組む。
「つまり?」
「ノクティスがいると、始祖が安定します」
沈黙。
レグルスが、ニヤニヤし始める。
「へぇ?」
ノクティス。
「その顔やめてください」
その時。
ドタドタドタッ!!
クロエが階段を降りてきた。
「お、おはようございます!!」
勢いがすごい。
ノクティスと目が合う。
数秒停止。
「…………」
「…………」
クロエの顔が、一気に真っ赤になった。
「ご、ごごごごめんなさい!!」
ノクティスも珍しく視線を逸らす。
「……いえ」
気まずい。
とても。
レグルスが完全に笑いを堪えている。
セレナは頭痛そう。
エルは観測中。
ノクスだけが静かにため息をついた。
だが。
その空気は。
昨夜までとは、少し違っていた。
恐怖ではない。
敵意でもない。
確かにそこにあるのは。
“繋がり”だった。
その時。
ノクティスの視界が、一瞬だけ揺れる。
クロエの背後。
黒い羽根。
赤い月。
そして。
『ティス』
優しい声。
ノクティスが、思わず立ち上がる。
「……っ!」
全員が振り返った。
クロエが目を丸くする。
「ど、どうしたの?」
ノクティスは、自分の頭を押さえる。
知らない記憶。
知らない声。
なのに。
胸だけが理解している。
――知っている。
あの声を。
あの呼び方を。
そして。
“ティス”と呼ぶのは、世界でたった一人だけだった。
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