第十三話:口づけより深く
血の匂いが、空間を満たしていた。
赤。
暖かい。
甘い。
クロエの瞳が、揺れる。
喉が熱い。
頭の奥が痺れる。
本能が叫ぶ。
――飲め。
「っ……」
クロエが一歩後ろへ下がる。
「やだ……」
震える声。
「だめ……」
ノクティスは、静かに彼女を見つめていた。
恐怖はある。
本能も警告している。
それでも。
なぜか。
この少女なら、信じられる気がした。
「……大丈夫です」
その言葉が。
不思議なほど、優しかった。
ノクスが低く呟く。
「……やめろ」
レグルスも険しい顔をする。
「今のクロエに、血を与えるのは危険だ」
理解している。
始祖の空腹状態での吸血。
それは、封印された本能をさらに刺激する可能性がある。
だが。
クロエは限界だった。
息が苦しい。
視界が赤い。
知らない記憶が流れ込む。
炎。
悲鳴。
血。
そして。
孤独。
「……ぁ……」
クロエの身体が崩れ落ちそうになる。
その瞬間。
ノクティスが、彼女を支えた。
触れた瞬間。
ドクン――
二人の血が共鳴する。
ノクティスの脳裏へ、知らない記憶が流れ込んだ。
赤月。
黒翼。
玉座。
そして。
『――生きなさい』
優しい声。
銀髪の幼い少年へ、誰かが微笑んでいた。
「……っ!」
ノクティスの瞳が揺れる。
クロエもまた、同じ光景を見ていた。
知らない。
なのに。
どうしてか。
懐かしい。
「……ティス……?」
無意識だった。
ノクティスが息を呑む。
その呼び方。
まるで昔から、そう呼ばれていたみたいに。
クロエは、ぼんやりしたまま彼を見上げる。
「……なんで」
「泣きそうな顔してるの……?」
気づけば。
ノクティスの頬へ、涙が伝っていた。
本人にも理由は分からない。
ただ。
胸が苦しい。
守りたい。
この人を。
その想いだけが、溢れてくる。
エルが静かに呟く。
「……血統共鳴、限界値突破」
「記録更新」
セレナは、目の前の光景を信じられずにいた。
始祖。
世界最悪の災厄。
そのはずなのに。
どうして。
こんなにも、悲しそうな顔をしているのか。
その時だった。
クロエの瞳が、再び赤く染まり始める。
本能。
飢餓。
限界。
クロエは震える声で呟いた。
「……ごめんなさい」
そして。
ノクティスの首元へ、そっと唇を寄せた。
静かに。
優しく。
牙が、肌へ触れる。
まるで。
口づけより、深く。
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