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第9話 見張り

彼女の名前は、朝倉葵といった。

陸上自衛隊、第四十普通科連隊の三等陸曹。二十六歳。部下からは「班長」と呼ばれている。

そのどれも、透は本人から聞いたわけではなかった。廊下の隅で、柱の影に立って、彼女が古賀さんに名乗るのを聞いていただけだ。

「第四十普通科連隊、朝倉葵三曹です。部下三名と、しばらくこちらにお世話になります。自衛隊にできることは、何でも言うてください」

そう言って、彼女は深く頭を下げた。三日分の泥と疲労を、その背筋だけが弾き返しているように見えた。

――朝倉さん。

透は、心の中だけで、その名前を一度呼んでみた。

◇

朝倉さんが避難所の信頼を集めるのに、半日もかからなかった。

部下の松尾という若い隊員は、まだ熱が下がらず、保健室から運び上げたベッドで寝ている。朝倉さんはその枕元に何度も通い、その合間に、非常階段の見張りの交代表を作り直し、窓に毛布を張らせ、廊下のどこに立てば音が響きにくいかを一つずつ確かめて回った。

子どもに話しかけるときは、必ずしゃがんで、目の高さを合わせた。

「……この音は、怪物に聞こえる。こっちの歩き方は、聞こえん。どっちがよか?」

「こっち」

「そう。じゃあ、お姉ちゃんと競争しよか。どっちが静かに歩けるか」

無表情のまま、彼女は廊下をつま先で歩いてみせる。子どもたちが、その後ろを一列になって真似をする。

――うまいな。

柱の影で、透は感心していた。教えるものを、遊びにしてしまう。じいちゃんのやり方に、少し似ている。

理科室の前では、もう一つ、ちょっとした事件があった。

「……そういうことについて、自衛隊に口を出される筋合いはなかばい」

塩崎が、山のような腹を反らしていた。その前に、朝倉さんが立っている。一つも声を荒らげずに。

「口を出しよるつもりはありません。粉ミルクは、赤ちゃんのおる三世帯に先に渡してください。それだけお願いしよるとです」

「それが口を出しとるっちゅうとたい」

「なら、口を出します」

朝倉さんは、ほんの少しだけ首を傾けた。

「赤ちゃんが泣いたら、その声で、この階の全員が危なくなります。粉ミルクで赤ちゃんが静かになるなら、それは、あなたのためでもあるとですよ」

塩崎が、言葉に詰まった。

周りで息を殺していた住民たちの何人かが、小さく頷いている。塩崎はそれに気づき、舌打ちして、取り巻きに段ボールを一箱運び出させた。

――おお。

透は柱の影で、音を立てずに拍手した。

――いい。すごくいい。今後の覗きが楽しみだ。

覗き魔としての腕が鳴る透だった。

◇

夕方。

美術準備室の扉の隙間から、透は廊下の、もう一つの「事件」を目撃した。

朝倉さんが、背嚢の中身を整理していた。その手が、外ポケットでふと止まる。

取り出されたのは、カスタードプリンだった。

朝倉さんはそれをじっと見つめ、背嚢の中をもう一度確かめ、周りを見回し、またプリンを見つめた。無表情だ。けれど、眉の間に、この三日間で一番深い縦皺が刻まれていた。

それから彼女は、周りに誰もいないことを確かめると、非常階段の踊り場の隅に小さくしゃがみ込んだ。

蓋を、そっと剥がす。

添えられていた小さなスプーンで、一口。

――あ。

透は、息を呑んだ。

朝倉さんの口元が、ほんの少しだけ、ほどけたのだ。笑った、というほどではない。ただ、ずっと固く結んでいた紐が、一箇所だけ緩んだような。

二口目。三口目。

そのとき、踊り場の上から、小さな顔がひょこんと覗いた。

ひなただった。

朝倉さんの手が、スプーンをくわえたまま、凍りついた。

「……あ。あのときの、お姉ちゃん」

ひなたは、朝倉さんの手の中のプリンを、じっと見つめた。

「プリン、食べよる」

「……」

「一人で、隠れて」

朝倉さんは、スプーンを口から抜いた。そして、ひなたと同じ高さにしゃがんだまま、真剣な顔で、人差し指を唇に当てた。

「……誰にも言わんでね」

「なんで?」

「……なんでも」

「じゃあ、ひなたも一口」

朝倉さんは、一秒だけ迷ってから、スプーンで一口分をすくい、ひなたの口にそっと運んだ。ひなたは頬を押さえて、声を出さずに足をバタバタさせた。

「……プリンのお姉ちゃん」

「その呼び方は、やめて」

「プリンのお姉ちゃん」

「……やめて」

柱の影で、透は壁に額を押しつけていた。

――なんだ、この人。

心臓の音が、ちょっとうるさい。この三日間で、一番うるさいかもしれない。

◇

そして、その夜。

透は、いつものように覗きをしようと天井裏を這っていた。

――これは、避難所の安全確認だ。

誰に言い訳する必要もないのに、なぜか今日に限って、自分にそう言い聞かせていた。

四階の給湯室。その天井の点検口の、すぐ上。埃だらけの天井裏に、透は腹ばいになっていた。点検口の蓋の、わずかな隙間から、下の様子が見える。

給湯室には、過去三日分の雨水を貯めたポリタンクがある。女性たちは、夜に交代でここを使って、濡らしたタオルで体を拭いている。それを透は、半日の覗きで、もう把握していた。

安全確認だ。絶対に。

最初に入ってきたのは、狙い通り朝倉さんだった。

懐中電灯を小さく絞り、流し台の上に置く。それから、扉に背を向けて、ポニーテールのゴムに指をかけた。

黒髪が、ほどける。

さらりと、腰まで。懐中電灯のほの暗い光の中で、それは、少しだけ濡れているように光った。

心拍、八。

彼女が、迷彩服の上着の、一番上のボタンに手をかける。

心拍、二十。四十。

――落ち着け。無だ。無になれ。

二つ目のボタン。少しだけ谷間が見えた。大きい……

――無だ……無になれ……だめだ。

心臓が、ばくばくと暴れ出した。耳の奥で、祭りの太鼓みたいに鳴っている。肋骨の内側から、何かが必死に外へ出ようとしている。

天井裏の梁(はり)が、ぎし、と鳴った。

朝倉さんの手が、止まった。

次の瞬間、彼女はもう、壁に立てかけてあった小銃をつかんでいた。銃口が、まっすぐ天井を向く。その動きには、一切の迷いがなかった。

「……誰か、おると?」

透は、転がるように逃げた。

天井裏を、四つん這いで。音を立てないように、けれど全力で。途中で梁に頭をぶつけ、声を呑み込んだ。心臓は、まだばくばくと暴れている。今、怪物に囲まれたら、一秒で見つかる。

――なんでだ。

怪物の鼻先一メートルでも、八でいられたのに。

――なんでボタン二つ外しただけで、心臓が口から飛び出しそうになるんだよ。見たかったのに!

◇

給湯室の真上から十メートルほど離れた天井裏で、透は息を整えていた。

下の給湯室からは、しばらく何の音もしなかった。

やがて、点検口の方から、小さな声が届いた。

「……あの夜も。倉庫も」

朝倉さんの声だった。銃を構えたまま、天井に向かって、ゆっくりと話している。

「怪物が、勝手におらんくなった。線路が、勝手に鳴った。壁に、勝手に矢印があった。……それに、背嚢の中も」

透は、息を止めた。今度は必死で。

「ぜんぶ、あんたやろ。……おるっちゃろ、そこに」

その声は、少しだけ震えていた。怒っているのではない。怖がっているのでもない。ただ、ずっと指先に刺さっていた棘のようなものを、ようやく口に出したような声だった。

長い、長い沈黙。

やがて、下から小さなため息が聞こえた。

「……気のせい、か」

扉が開き、閉まる音。彼女は給湯室を出ていった。体を拭くのは、どうやらやめたらしい。

透は、埃だらけの天井裏で、仰向けに転がった。

――気のせいじゃないんだよな、それが。

ぶつけた頭が、ずきずきと痛んだ。

心臓の音は、まだ、なかなか静かにならなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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