第10話 「あなた、誰?」
透が天井裏から這い出して、まだ十分も経っていなかった。
赤ん坊の泣き声が、四階の廊下に響いた。
母親が慌てて口を塞ぐ。けれど、一度火がついた泣き声は、なかなか止まらない。配給の夕食を終えたばかりの住民たちが、一人、また一人と顔を上げる。誰も何も言わない。ただ、怖れと、少しの苛立ちと、それを恥じる気持ちが、沈黙の中に混じり合っていた。
透は、美術準備室の窓から校庭を見下ろした。
霧の中で、灰色の影が動いている。一つ、三つ、七つ。校門のバリケードを乗り越え、校庭に入ってきている。四階までは届かない。けれど、一階の教室に入り込まれ、階段の下に居座られたら、明日から透しか物資を取りに出られなくなる。
――面倒くさい。
そう思いながら、透はもう、非常階段の扉に手をかけていた。
◇
校庭を横切る。群れの後ろを、音もなく抜ける。
校舎の裏の自転車置き場。そこに並んだ自転車の一台のベルを、透は指先で弾いた。
ちりん。
七体の首が、そちらを向く。
それから透は、一つずつ音を置いていった。校舎の裏から、通学路へ。通学路から、商店街へ。シャッターを拳で一度叩き、ガードレールを小石で鳴らし、空き缶を転がす。群れはそのたびに音を追い、少しずつ中学校から離れていく。
一キロ先の、開け放たれた工場の倉庫。
その奥で、目覚まし時計のアラームを三十分後に合わせて置いてきた。この三日間で拾い集めた、「囮」の一つだ。
帰り道は、足がもつれた。
一晩中線路を叩いた前の夜から、ほとんど眠っていない。天井裏でぶつけた頭も、まだ痛む。息を殺し続けるのは、思った以上に体力を削る。
中学校の裏手にたどり着いたとき、透はもう、気配を消すことも忘れていた。群れはもういない。それだけを確かめて、非常階段を、ただの疲れた大学生の足取りで上っていった。
一階。二階。三階。
四階の踊り場。扉に手をかけた。
その瞬間、扉の内側から伸びてきた手が、透の手首をつかんだ。視界がぐるりと回る。気づいたときには、腕を背中にひねり上げられ、頬を壁に押しつけられていた。
◇
「動かんで」
低い声だった。
肩越しに見えたのは、朝倉さんの顔だった。見張りの当番だったのだ。それは知っていた。知っていたのに、忘れていた。
「……あなた、誰?」
霧の夜のコンビニでも、倉庫の前でも、給湯室の天井の下でも、この人は一度も透を見なかった。
その人が、今、まっすぐに透を見ている。
切れ長の目の奥で、何かが、必死に透の輪郭をなぞろうとしているのがわかった。
――あ、見られてる。
妙な感覚だった。腕をひねり上げられているのに。
「あ、いや、ずっといましたけど」
「質問に答えて」
「……香椎のコンビニの、店員です」
朝倉さんの眉が、わずかに動いた。
透は、何となく、もう一つだけ付け加えた。
「プリン、美味しかったですか」
朝倉さんの手が、止まった。
腕は放されない。けれど、手首をつかむ力が、ほんの少しだけ、緩んだ。
長い沈黙があった。
「……あの夜の」
「はい。三つで、四百五十九円。お釣り、まだお渡ししてません」
「……」
朝倉さんは、答えなかった。ただ、その切れ長の目が、透の顔を、肩を、手を、一つずつ確かめるように動いていく。
やがて、その目が、透の頭で止まった。
髪に、白っぽい蜘蛛の巣が絡みついている。よく見れば、上着の肩にも。ついさっき、給湯室の天井裏を這い回ったときについたものだ。
朝倉さんの目が、すっと細くなった。
「……その蜘蛛の巣。どこでつけたと」
――あ。
「……それは、その、安全確認を」
「給湯室の天井も、あなた?」
「安全確認です」
「……通報するよ」
絶対零度の声だった。頬に当たる壁よりも、ずっと冷たかった。
◇
「あ、その子は大丈夫たい」
騒ぎを聞きつけた古賀さんが、廊下の向こうから小走りでやってきた。
「ずっとおる子やけ。大庭さんと、佐伯さんとこの親子を連れてきたんも、この子たい」
「……ずっと、おったとですか」
朝倉さんが、透の腕をゆっくりと放しながら尋ねた。
「私、この階の住民の方は、全員顔を覚えたつもりやったとですけど」
「それがなあ。この子だけは、なんでか目に入らんとよ。いつの間にかおって、いつの間にかおらん。けど、この子は、わしらのこと、よう知っとってねぇ」
古賀さんは、何の悪気もなく笑った。
「あんた、何でも知っとうやろ。この辺のことは」
「……まあ、だいたいは」
透は、うっかり答えてしまった。
朝倉さんが、小銃のスリングを肩にかけ直して、腕を組んだ。
「たとえば」
「たとえば、ですか」
「この階のことで。何か一つ」
眉一つ動かさない。けれどそれは、試している声だった。この男が、本当に「ずっといた」のかどうか。
透は、少し考えた。
それから、本当のことを言った。
「……二組の教室の前で寝てる山下さんは、禁煙中と言いながら、夜中に非常階段で一本だけ吸ってます。塩崎さんは、理科室で毎晩一人だけカップ麺を食べてます。しかも大盛りです。古賀さんは、奥さんに絶対に内緒で買った新しい釣り竿を、工務店の資材置き場の奥に隠しています」
古賀さんが、凍りついた。
「それから、松尾さんは、熱でうなされながら、寝言で『班長、すんません、右も見ます』って謝ってました。たぶん、小倉で何か怒られたんだと思います」
朝倉さんが、微かに、口を開けた。
「……あと、朝倉さんは――」
「そこまででよか」
途中で、手首をつかまれたときよりも速く遮られた。
朝倉さんは、一度だけ深く息を吸って、吐いた。そして、今日いちばん冷たい目で、透を見つめた。
「……最低やね」
それだけ言って、彼女は踵を返した。
◇
廊下の奥へ歩いていく、その背中を、透は黙って見送った。
古賀さんが、苦い顔で透の肩を叩いた。
「……あんた、釣り竿のことは、絶対に内緒たい」
「言いませんよ。覗いたものは、人には言わない主義なんで」
「今、全部言うたやないか」
古賀さんが去ったあと、透は非常階段の踊り場に座り込んだ。
やってしまった。いや、やってしまったのは給湯室の方だが。
実家を出てから、ずっと覗いてきた。一度も、誰にも見つかったことはない。
それが、よりによって一番見つかりたくない相手に、一番見つかりたくない形で。
――まあ、いいけど。
強がりだと、自分でもわかった。
そのとき。
廊下の奥で、足音が止まった。
透が顔を上げると、朝倉さんが、廊下の向こうで振り返っていた。
遠い。表情は、よく見えない。
「……名前は」
「え」
「あなたの名前。まだ、聞いとらん」
透は、少しだけ言葉に詰まった。
名前を聞かれたことは、それこそ数えるほどしかない。そもそも、透に興味を持つ人間がいなかった。
「……霧島です。霧島、透」
朝倉さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと、確かめるように言った。
「……霧島、透」
そして、何も付け加えずに、廊下の奥の闇に消えていった。
透は、踊り場に座ったまま、動けなかった。
遠くで、工場に仕掛けた目覚まし時計が、微かに鳴り始めた。群れは、もう戻ってこない。
赤ん坊は、いつの間にか泣き止んでいた。
心臓の音だけが、うるさかった。
◇
廊下の奥。窓に毛布を張った、暗い角。
朝倉葵は、壁に背中を預けて、ゆっくりとずり落ちるように座り込んだ。
胸ポケットには、一枚のレシートが入っている。倉庫の扉の下から滑り込んできた、丁寧で小さな字。
その裏に印字された、店の名前を、葵はもう何度も読んでいた。
香椎。
「……まさかね」
あの冴えない、蜘蛛の巣だらけの、覗き魔が。
葵は小さく首を振り、レシートを胸ポケットに戻した。
確かめるのは、明日でいい。
第一部 完
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