第11話 監視
第ニ部開始です。
朝の美術準備室は、絵の具とテレピン油の匂いがした。
透は壁にもたれたまま、薄く目を開けた。寝たのは、たぶん二時間ほどだ。体のあちこちが、まだ鈍く痛む。
目の前に、迷彩服の膝があった。
「起きた?」
朝倉さんが、床にあぐらをかいて座っていた。小銃を膝の上に寝かせ、片手に、くしゃくしゃになった紙切れを持っている。コンビニのレシートだ。
「……おはようございます」
「質問に答えて」
朝倉さんはレシートを、透の鼻先に突きつけた。裏には、見覚えのある小さな字が並んでいる。倉庫の扉の下から滑り込ませた、あの字だ。
「これ書いたんは、あなた?」
「字、きれいですね」
「答えて」
「コンビニのレシートなんて、福岡中にありますよ」
「香椎の店のは、香椎にしかなか」
透は黙った。朝倉さんも黙った。窓の外で、霧がゆっくりと流れていく。
やがて、朝倉さんはレシートを丁寧にたたみ、胸ポケットにしまった。
「……よか。答えんで」
「助かります」
「その代わり、今日からあなたを監視するけん」
「……覗き、ですか?」
「違う」
朝倉さんの目が、すっと細くなった。
「民間人が、怪物だらけの街を一人で歩き回っとる。自衛官として、放っておけん」
「……ずっとですか」
「ずっと」
朝倉さんは立ち上がり、小銃を肩にかけた。それから少し考えて、ポケットから何かを取り出した。反射材のテープだった。迷彩服の袖から剥がしたものらしい。
彼女はそれを、透の背中にぺたりと貼った。
「……これは」
「目印。あなた、すぐ見えんくなるけん」
透は、自分の背中を振り返ろうとして、首が回りきらなかった。
――監視される側。
ずっと覗く側だった。それが、よりによってこの人に。悪くない、と一瞬でも思ってしまった自分に、透は少しだけ呆れた。
◇
霧に沈んで五日目の街を、透は歩いた。その三歩後ろを、朝倉さんがついてくる。
最初の一時間で、朝倉さんは透を四回見失った。
「……どこ」
「いますよ」
「どこ。返事して」
「真後ろです」
振り向いた朝倉さんの顔が、ほんの少しだけ引きつった。背中の反射テープは、霧の中ではほとんど役に立たなかった。
「……テープ、もう一枚貼る」
「増やしても同じだと思いますけど」
「同じかどうかは、私が決める」
背中に二枚目が貼られた。透は抵抗しなかった。抵抗すると、たぶん三枚目が来る。
透の一日は、だいたい決まっていた。
朝、まだ霧が一番濃いうちに外へ出る。群れの通り道を確かめ、空いた道に印をつけていく。壁の低いところに、チョークで小さく。丸は安全な道。バツは群れの溜まり場。三角は、アスファルトが割れ、電柱がなぎ倒された場所。群喰よりずっと大きな何かが通った跡だ。矢印は、まだ手のついていない店や家。
「その印、誰が読むと」
「誰でも。読める人が読めばいいんで」
「あなたが案内した方が早いやん」
「僕、いつもいるわけじゃないんで」
朝倉さんは、それ以上は聞かなかった。ただ、壁の丸印をしばらく黙って見ていた。
昼前には、高層マンションを回る。十二階建ての建物の、九階の一室。玄関の前で、透は扉の下に封筒を一枚差し入れる。
中身は手紙だった。差出人は、二百メートル先の別のマンションに逃げ込んだ、この家の息子夫婦だ。霧が来た夜、離れ離れになったきり、互いの生死がわからなかった。
透は昨日、たまたま息子夫婦の部屋を覗いていて、父親宛ての手紙を書きかけて泣いている嫁を見た。だから、預かってきた。
「……たまたま覗いとって?」
「たまたまです」
「たまたま、人の家を覗く?」
「習慣みたいなもので」
朝倉さんの目が、すっと細くなった。透はそれ以上の説明をやめた。
扉の向こうで、封筒を拾う気配がした。紙を開く音。少しして、扉越しに、かすれた声がした。
「……誰ね。誰か、おるとね」
透は答えなかった。
「これ、どこで……あいつら、生きとうとね。頼む、顔ば見せてくれ。礼ば言わせて――」
扉の内側で、チェーンを外す音がした。
朝倉さんが、透を見た。透は小さく首を横に振り、もう階段を下り始めていた。礼を言われるのは苦手だった。
朝倉さんは一瞬だけ迷い、それから扉に向かって言った。
「自衛隊です。息子さんたちは無事です。手紙に書いてある場所におります。……また、必ず来ますけん」
扉が細く開く前に、朝倉さんも階段へ向かった。背中のほうで、押し殺したような嗚咽が聞こえた。
◇
午後は、物資を拾って回った。
空いたドラッグストアから粉ミルクを二缶。誰もいない民家の台所から、缶詰めを五つ。透はそれを、子どものいる家の扉の前に、ノックもせずに置いていく。
朝倉さんは、その配り方をずっと見ていた。
四軒目のマンションの前を通りかかったとき、透は足を止めずに素通りした。
「待って」
朝倉さんの声が、低くなった。
「あそこにも人はおるやろ。三階の窓。カーテンが動いた」
「いますね」
「なんで置いていかんと」
透は少しだけ考えて、それから、見たままを答えた。
「あの家、一階の店から物資を全部運び込んでます。部屋に入りきらないくらい。それで昨日、上の階から降りてきたおばあさんを、玄関で追い返してました」
朝倉さんは黙った。
「足りてる家に置いても、仕方ないんで」
「……それを、あなたが決めると」
「別に、決めてませんよ。荷物、重いんで」
本当のことだった。両手はもう、ふさがっていた。
朝倉さんは何か言いかけて、やめた。眉の間に、小さな縦皺が寄っている。けれど彼女は、それ以上は何も言わなかった。
◇
夕方、避難所に戻ると、廊下の隅に子どもたちが集まっていた。
ひなたと、ランドセルの男の子――陸、という名前だと、透は今朝知った――と、ほかに四、五人。みんな、透を待っていたらしい。
「お兄ちゃん、今日もやると?」
「やりますよ」
透は廊下に座り込んだ。子どもたちも、その前に輪になって座る。
「じゃあ、我慢比べ。息を吐いて、吐ききって、止める。一番長く、静かにしてられた人が勝ち。動いたら負け。笑っても負け」
子どもたちが、一斉に息を吐く。止める。頬をぱんぱんに膨らませて、目を白黒させる。
最初に脱落したのは陸だった。ひなたと目が合って、吹き出したのだ。
「陸くん、負け」
「ひなたが変な顔したもん!」
「しとらん!」
「声、大きいですよ。二人とも負け」
廊下の向こうで、住民たちが小さく笑うのが聞こえた。誰も声は立てなかった。けれど確かに、笑っていた。
透は、子どもたちが息を止める顔を、一人ずつ見ていった。祖父がいつも、自分にそうしていたように。
「……あの遊び、意味があると」
輪から離れたところで、朝倉さんが小さく聞いた。
「あいつらが真下を通るとき、子どもは怖くて息が荒くなるんで。止め方を知ってるのと知らないのとじゃ、違うと思います」
「誰に教わったと」
「祖父です。遊びだって言われてましたけど」
朝倉さんは、子どもたちの輪をじっと見つめていた。ひなたが、真っ赤な顔で最後まで息を止めている。
◇
その夜、透が美術準備室に戻ると、扉の前に毛布が一枚置いてあった。
誰のものかは、わからなかった。
廊下の奥では、由美さんが、隣の家族に小声で何かを話していた。
「――不思議な人なんよ。あの怪物だらけの中ば、平気な顔して歩いてきよってね。一緒におると、なんでか怪物に見つからんとよ。ひなたもね、その人に連れてきてもらったと。……すぐそばにおるはずやのに、おることを忘れてしまうとよ。気づいたら隣におって、気づいたらおらん」
「ずっと足元にくっついとるのに誰も気にせん、影法師みたいなもんね」
誰かがそう言った。その言葉は、廊下の暗がりを伝って、少しずつ奥へ広がっていった。
透は毛布にくるまって、壁にもたれた。
扉の外で、気配がした。朝倉さんだった。見張りの交代の前に、様子を見に来たらしい。扉の隙間から、透の背中の反射テープが光っているのを確かめると、彼女は小さく息を吐いた。
「……おる」
小さな声だった。
透は目を閉じたまま、聞こえないふりをした。
背中のテープは、結局その夜、剥がさなかった。
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