第12話 海から来た女
十一月二十日、午前六時半。
透は一人で、香椎浜の防波堤の上にしゃがんでいた。
朝倉さんは、夜明け前の見張りの交代に入っている。監視が途切れる、一日でたった二時間の自由時間だった。
自由時間を何に使うかは、決めていた。
防波堤の向こう、海沿いの十四階建てのマンション。その十一階に、毎朝この時間、ベランダで薄着のまま体操をする若い女性がいる。霧が来る前からの習慣で、霧が来てからも、なぜかやめていない。透は三か月前から知っていた。
――あくまで、安否確認だ。
自分にそう言い聞かせて、透はベランダを見上げた。
今日は霧が濃すぎて、何も見えなかった。
「……残念」
小さく呟いて、透は視線を海に戻した。
灰色の波が、ゆっくりと砂浜を洗っている。霧の向こうで、何かが光った。オレンジ色の、小さな点。
波打ち際に、救命ボートが一艘、打ち上げられていた。
◇
ボートの縁から、人の腕が垂れていた。
透は防波堤を降り、砂浜に足を踏み入れた。砂は、足音を吸ってくれる。濡れた砂なら、なおさらだ。
ボートの中に、女が一人、横たわっていた。三十代の半ばくらい。濡れた黒髪が、青白い頬に張りついている。オレンジ色の救命胴衣の下は、白衣だった。胸に、防水袋に入れた何かを、両腕でしっかりと抱えている。
息はあった。浅く、速い。
――まずいな。
この呼吸では、あいつらに見つかる。
透が女の肩に手をかけようとしたとき、砂浜の奥で、湿った足音がした。
灰色の背中が、霧の中から現れた。四体。波打ち際に沿って、鼻先を砂に近づけながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして、その群れのさらに後ろに。
人がいた。
黒い装備に身を包んだ男たちが、三人。顔の下半分を覆面で隠し、消音器のついた銃を構えている。足取りは静かで、無駄がない。彼らは群れのすぐ後ろを歩いていた。ニメートルほどの距離を。
それなのに、群れは男たちに一度も振り向かなかった。
透は、目を細めた。
男たちの気配が、薄い。いや、薄すぎる。
――まるで、自分と同じだ。
――……人間なのか?
男の一人が、手信号を送った。ボートを指さす。三人が、散開しながら近づいてくる。
狙いは、この女だ。
◇
透は、女の口を手で塞いだ。
女の目が、ぱっと開いた。恐怖で見開かれた目が、透を捉える。悲鳴を上げかけた喉を、透の手のひらが押さえ込んだ。
「静かに。あいつらが来てます」
耳元で、息だけの声で囁く。
女の目が、透の肩越しに群れを見た。それから、黒い男たちを。彼女の体が、がちがちに強ばった。
透は女を抱え上げた。軽かった。濡れた白衣が、透の腕に冷たく張りつく。防水袋だけは、女が死んでも離さないという顔で抱えていた。
砂浜の端に、漁師の小屋がある。その脇に、ひっくり返した小舟が三艘、並べて干してあった。透は一番奥の舟の下に、女ごと滑り込んだ。
舟底の下は、狭くて、暗くて、潮と魚の匂いがした。
「息を吐いて」
女の耳元で囁く。
「吐ききって。少しだけ、止めて。それから、ゆっくり吸う」
女は震えながら、透の言うとおりにしようとした。うまくいかない。心臓が、透の腕に伝わるほど速く打っている。
舟の外を、足音が通り過ぎていく。湿った爪の音。群喰だ。
透は女を抱きかかえたまま、自分の息を沈めた。心臓を、ゆっくりと落としていく。六十、四十、二十。体の熱が、皮膚の内側に引っ込んでいく。
女の呼吸は、まだ荒い。
――頼むから、そこで止まってくれ。
舟の板一枚向こうで、群喰の鼻先が、砂を探る音がした。
◇
そのとき、波打ち際で、男の一人が声を上げた。
「――没有人!」
中国語だった。ボートが空なのに気づいたのだ。
声に、群喰が反応した。四体が、一斉に男たちの方へ首を向ける。男たちは舌打ちし、銃を構えたまま後退する。消音器のくぐもった発砲音が、二度、三度。
群れが、男たちの方へ流れていく。
透は、舟の下でじっと待った。発砲音が遠ざかり、群れの足音が遠ざかり、波の音だけが残るまで。
腕の中で、女が少しずつ落ち着いていくのがわかった。いつの間にか、透の呼吸に合わせるように、ゆっくりと息をしている。
それに気づいたのは、彼女の方が先だった。
「……あなたも」
舟の下の暗がりで、女が小さく言った。流暢な日本語だった。
「心臓が、ほとんど動いていない」
「よく言われます」
「言われないと思う」
女は、透の胸に耳を押し当てるようにして、しばらく黙っていた。医者が聴診器を当てるときのような、真剣な顔だった。
透の心拍が、少しだけ上がった。
濡れた白衣越しに、女の体の柔らかさが、はっきりと伝わってきたからだ。
――いや、違う。今はそういう場面じゃない。
「今、上がった」
「気のせいです」
「二十から、三十五」
「気のせいです」
女は顔を上げ、透をまじまじと見た。
「……リン?」
「何がですか」
女は、はっとしたように、まばたきをした。
「……いえ。私の、名前です」
それから、ほんの少しだけ、笑った。泣き笑いのような顔だった。
◇
霧が少しだけ明るくなったころ、透は女を背負って、避難所への道を歩いていた。
女の名前は、林美雪といった。
「リン・メイシュエ。上海の生まれです」
背中で、彼女は言った。体はまだ冷えきっていて、小刻みに震えている。それでも、胸の防水袋だけは離さなかった。
「さっきの人たち、知り合いですか」
「……私を、連れ戻しに来た人たち」
「中国語、話してましたね」
美雪さんは、しばらく答えなかった。霧の中を、透は足音も立てずに進んでいった。
「あの怪物たちを、知っていますか」
「知ってるってほどじゃ。この一週間、毎日見てますけど」
「あれは、どこから来たと思いますか」
「海の方から、って聞いてます」
美雪さんの腕に、少しだけ力がこもった。
「……海の向こうから。私たちが、開けてしまった扉の向こうから」
透は、足を止めなかった。
「私たちが、門を開けたんです」
背中で、美雪さんが声を殺して泣いているのがわかった。透は何も言わずに、そのまま歩き続けた。
中学校の非常階段の下で、朝倉さんが待っていた。見張りの交代は、とっくに終わっていたらしい。透の背中の女を見て、彼女の手が、無意識に小銃のグリップを握った。
「……誰」
「海で拾いました」
「……変態」
「違います。あと、黒い服の人たちに追われてました。中国語の」
朝倉さんの顔から、表情が消えた。
透は、背中の美雪さんを階段に下ろした。
朝倉さんの目が、美雪さんから、透へ移った。
「……それで。あなたは、なんで朝から海におったと」
「散歩です」
「霧の中を、怪物だらけの浜まで」
「散歩です」
朝倉さんは、透の背中の反射テープを見て、それから、透の顔を見た。何かを察したらしい。彼女の目の温度が、すうっと下がった。
「……海沿いの十四階建て」
「何のことでしょう」
「十一階のベランダ。毎朝綺麗な人が踊りよるって、古賀さんが言いよった」
「体操です」
「……やっぱりね」
透は、何も言えなかった。
美雪さんが、二人の顔を交互に見て、また小さく笑った。
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