第13話 鑰匙
理科室の隣の、空き教室だった。
窓には毛布が張られ、机の上で美雪さんが身を縮めている。保健室から運ばれたジャージの上に、毛布を二枚。濡れた白衣は、窓際で干されていた。
向かいに、朝倉さんが座っている。小銃は膝の上だ。その後ろに堤先生。教室の隅に、透。誰も透を数に入れていないが、彼はただそこにいた。
「――それで、あなたは何者ですか」
朝倉さんの声は、冷たかった。
美雪さんは、両手で包んだ紙コップの白湯を、一口だけ飲んだ。それから、防水袋を机の上に置いた。中には、分厚いファイルと、小さな記憶媒体がいくつか入っている。
「私は、研究者です」
彼女は、そこから話し始めた。
◇
東シナ海の海の上に、ガス田の施設に偽装した研究所がある。そこで十年以上、世界のどこにも発表されない研究が続けられてきた。
「鑰匙計画。日本語で言うと、鍵です」
地球には昔から、ほんの一瞬だけ、どこか別の世界とつながる「裂け目」が開く場所がある。そこからは、ときどき小さな生き物がこぼれ落ちてくる。美雪さんたちはそれを「門」と呼んでいた。
「皆さんも、見たことがあると思います。夜に青く光る、小さな虫」
「……ヨミボタル」
透が、思わず口にした。全員が、そこで初めて透に気づいたような顔をした。堤先生は小さく肩を跳ねさせた。
「そう。あれも、門から来た生き物です」
研究所は、その門を人の手で開けることに成功した。そして十一月十三日の夜、過去最大の規模で、門を開け続ける実験が強行された。
「私たちは、止めました。でも、止められなかった」
門は暴走した。そして、玄界灘の海の底で、もう一つの門がつられるように開いた。研究所の門はまもなく崩れて閉じたが、そちらは、今も閉じていない。
「あの霧も、怪物たちも、そこから来ています」
教室が、しんと静まり返った。
朝倉さんが、ゆっくりと口を開いた。
「……つまり、あなたたちのせいってことやね。中国の」
「私たちのせいです」
美雪さんは、目をそらさなかった。
「ただ、中国の人たちがみんな、このことを知っているわけではありません。北京の上の人たちも、たぶん本当のことは知らない。実験を強行した人たちが、全部を隠そうとしています」
「その証拠が、そこにあると」
朝倉さんは、防水袋を顔で示した。
「あります。だから、私は追われている」
「捕まったら、どうなると」
「データは消されます。私も、たぶん。……あの人たちにとって、私は生きていては困る証人ですから」
朝倉さんは、しばらく黙っていた。
「……信用したわけやなか。けど、銃で追われとる民間人を、渡すわけにはいかん。自衛官やけん」
◇
美雪さんの話は、そこから怪物たちのことに移った。
虚喰。研究所ではそう呼んでいたらしい。うろばみ。空っぽの腹を抱えたもの、という意味だという。
「あれには、目がありません。その代わりに、生き物の気配を拾います」
美雪さんは、黒板に指で線を引くようにして説明した。
体の熱。吐く息。心臓の鼓動。それに、地面を伝わる振動。そういうものを、口の周りの触手で感じ取る。届くのは、およそ五メートル。その内側に入れば、壁一枚くらいは関係ない。
「ただし、音はもっと遠くまで聞こえています。二十メートルくらいなら、物音のする方へ寄ってきます。音で方角を知って、近づいて、気配で獲物を確かめる」
堤先生が、小さくうなずいた。
「……やっぱり、そうだったんですね」
初日の夜、生き残った人たちを四階へ上げたのは、この人だ。理屈はわからなくても、あの夜のうちに、物音と高さの関係に気づいていたのだ。
透は、教室の隅で黙って聞いていた。
――息、鼓、熱を聴きて。
巻物にあった言葉と、同じだった。何百年も前の忍びが、自分の体で確かめたことを、この人は機械と数字で確かめている。
「それで、あの黒い服の人たちは」
透が声をかけると、また全員が小さくびくりとした。
「回収隊、と呼ばれています。彼らは、「静脈」という薬を使います。心拍を落として、気配を小さくする薬。あれを飲めば、二メートルまで近づいても気づかれない」
――浜で見た、あの不自然な気配。あれは、薬だったのか。
「……ただ、あなたは、それよりずっと先をいっている」
美雪さんが、まっすぐ透を見た。
◇
保健室から、聴診器と血圧計が運ばれてきた。
「……脱いでください」
「えっ?」
「上だけでいいです。胸の音を聴きたい」
美雪さんは、当たり前のように言った。研究者の目だった。さっきまでの脆さが、どこかへ消えている。
透は、朝倉さんを見た。
朝倉さんは、窓の方を向いた。そっけない横顔だったが、耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
――あ、この人、こういうの苦手なんだ。
どうでもいい発見だった。けれど、透はそれを、頭の中の大事な引き出しにしまった。
透は、シャツの裾に手をかけたまま、窓際の背中に声をかけた。
「……朝倉さんは、脱がなくていいんですか」
「なんで私が脱がないかんと」
振り向きもせずに返ってきた声は、氷のようだった。
「比較対象です。普通の人の胸の音も聴いておいた方が、科学的かなと」
「脱ぐわけなかろうもん。……変態!」
「……でも、朝倉さんの胸の音も、少し聴いてみたいです」
美雪さんが、真顔で聴診器を構えた。
「聴かんでよか」
朝倉さんの耳は、さっきより赤くなっていた。
シャツを脱ぐ。美雪さんが聴診器を胸に当てる。冷たい金属の感触に、透は少しだけ身をよじった。
美雪さんの目が、透の肩から腹へ、すっと下りた。
「……見た目より、ずいぶん鍛えていますね」
窓際で、朝倉さんの肩がぴくっと跳ねた。振り向きかけた顔が途中で止まり、何事もなかったように、また窓の方へ戻っていく。
「普通にしていてください。それから、あのときと同じように。船の下でしていたように」
透は、息を吐いた。
吐ききって、止める。心臓を、沈めていく。六十、四十、二十。指先が冷えていく。そして、もう少しだけ。
美雪さんが、腕時計を見つめたまま、動かなくなった。
一分が過ぎた。
「……八」
美雪さんの声が、かすれていた。
「一分間に、八回。呼吸は、一回。体表の温度も、下がっている……」
彼女は聴診器を耳から外し、一度、黙って日本語以外の言葉を呟いた。それから、もう一度、透の胸に当て直した。
「……生物学的に、ありえない」
「よく言われます」
「……門の向こうに、行ったことは、ありますか」
美雪さんは、聴診器を当てたまま言った。冗談を言う顔ではなかった。
「門って、さっきの話の、ですか。ないですよ。伊賀と福岡くらいしか」
「……そう、ですよね」
美雪さんは、聴診器を外した。それきり、何も言わなかった。目だけが、まだ透の胸のあたりに残っていた。
堤先生が、怪訝そうに眉を寄せた。
透は息を戻し、シャツを着た。窓の方を向いていた朝倉さんが、ようやくこちらを振り向いた。耳は、まだ少し赤かった。
「……それで。この人を、信用すると?」
朝倉さんは、透に向かって言った。
「私は、この人の言うことを、何一つ確かめられん。門も、実験も、回収隊も。中国が送り込んだスパイやないって、誰が言えると」
美雪さんは、何も言い返さなかった。ただ、防水袋の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
透は、少しだけ考えた。
「……この人、嘘はついてませんよ」
「根拠は」
「船の下で、一時間くらい、心臓の音を聞いてました。あの黒い人たちが通るたびに、本気で怖がってました。あれは、演技じゃできないんで」
「……それだけ?」
「あと、話してる間の目です。嘘をつく人は、一番隠したいところで、ちょっとだけ瞬きが増えるんです。この人、自分たちのせいだって言うとき、一度も瞬きしてませんでした」
朝倉さんが、少しだけ目を見開いた。
「……どこで覚えたと、そんなこと」
「覗きです」
透は、何のためらいもなく答えた。
「浮気の言い訳してる旦那さんを、三年でたぶん二十人くらい見てきたんで。覚えようとしなくても覚えますよ」
堤先生が、ついに吹き出した。慌てて口を押さえる。
朝倉さんは、しばらく透を用心深く眺めていた。それから、小さく息を吐いた。
「……信用はせん。ただ、監視対象に加える」
「覗きですね」
「監視」
美雪さんが、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。そして、透に向かって、ものすごく真剣な顔で言った。
「……あなたの体、もう一度、全部調べさせてくれませんか」
「全部って」
「全部です」
朝倉さんが、小銃を握り直した。
「……ここでは、やめて」
「恥ずかしいけど、朝倉さんと一緒ならいいです」
透が真顔で答えると、朝倉さんの目が、絶対零度になった。
「……撃つけんね」
小銃を握る指に、力がこもっていた。冗談に聞こえないのが、この人の怖いところだった。
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