第14話 苗床
美術準備室の床に、地図が広げられていた。
透がこの一週間、霧の中を歩きながら書き込んできたものだ。香椎から千早、箱崎にかけて、群れを見た場所と時刻。群れの向き。数。鉛筆の小さな字が、地図の余白を埋め尽くしている。
美雪さんは、それを一時間以上、黙って眺めていた。
「……これ、全部あなたが?」
「暇だったんで」
「暇で、ここまではしない」
美雪さんの指が、地図の上をなぞっていく。
「群れが、二度、ぜんぶ西へ消えている。それも、半日で戻ってきている。……やっぱり」
「何がやっぱりなんですか」
「虚喰は、異界の空気なしには生きられない。この霧のことです。私たちは「夜霧」と呼んでいた」
美雪さんは、窓の外の乳白色を顔で示した。
「ただ、街を覆っている霧は薄い。それだけでは足りなくて、ときどき濃い夜霧の溜まる場所へ戻って、補給しなければいけない。研究所で飼っていた個体は、七十二時間で弱り始めました」
「……三日目と、六日目です」
「そう。ちょうど、あなたの地図と合う」
美雪さんの指が、地図の西の端で止まった。博多と天神のあたりだった。
「たぶん、このあたりにある。苗床が」
「苗床」
「巣の、支店のようなものです。巣の本体から地下を伸びてくる根が、夜霧と卵をそこまで運んでくる。怪物たちは、そこへ夜霧を吸いに戻るんです。苗床を潰せば、このあたりの群れは弱るはずです」
「……地下。天神の」
透は、天神の地下街を思い浮かべた。細長く、どこまでも続く、窓のない通路。雨の日でも濡れない代わりに、どこかいつも湿っぽい空気。
「苗床は、たぶん、あそこですね。確かめに行きます」
「私も行きます」
美雪さんは、地図の天神のあたりを指で押さえた。
「本当にそこに苗床があるのか。群れが本当にそこへ戻って、夜霧を吸っているのか。それから、どこを壊せば苗床が死ぬのか。研究所で見た苗床には、根が一か所に集まった、心臓のような場所がありました。それを見つけないと、潰しようがない」
美雪さんがそう言ったとき、扉のところで朝倉さんが腕を組んだ。
「あなたは、狙われとるとよ」
「わかっています」
「わかっとらん。ここから天神まで、八キロ。霧の中を、歩いて。途中で一泊することになるとよ」
「苗床を見て、何が起きているのかわかるのは、私だけです」
二人の視線が、ぶつかった。
しばらくして、朝倉さんが組んだ腕をほどいた。
「……私も行く」
それから、当然のように透を見た。
「あなたは案内」
「……はい。朝倉さんも一緒なら、喜んで」
言ってから、声が少しだけ弾んでいたことに気づいた。朝倉さんの目が、すっと細くなる。
「……変なこと、考えとらんやろうね」
「考えてません」
考えていた。
◇
十一月二十二日。三人は、夜明け前に避難所を出た。
先頭は透。その三歩後ろに美雪さん。しんがりは朝倉さんだ。
道は、線路沿いを選んだ。群れの通り道を外し、住宅の裏庭を抜け、乗り捨てられた車の列の影を伝う。一日で歩けたのは、箱崎までの五キロだけだった。群れをやり過ごすたびに、一時間、二時間と物陰でじっと待たなければならない。
美雪さんは、意外によく歩いた。息を止めるのも、二日でずいぶん上手くなっていた。
日が暮れる前に、箱崎の古いオフィスビルに入った。八階建ての、六階。残業中に霧が来たのか、机の上には開いたままのノートパソコンと、飲みかけのペットボトルが残っていた。持ち主は、もういない。
「今夜はここ。見張りは三交代」
朝倉さんが決めた。
「最初はあなた。その前に……」
朝倉さんは、窓際の給湯室を顔で示した。ペットボトルの水が、何本か残っている。
「私と林さんは、体を拭く。見張りは、廊下の端。こっちを向かんこと」
「……はい」
「振り向いたら、撃つ」
「それ、音で群れが来ますよ」
「そのときは、あなたを置いて逃げる」
本気の目だった。
◇
廊下の端で、透は壁に背中を預けて座っていた。
給湯室の扉の向こうから、水の音がしていた。タオルを絞る音。小声の話し声。
「……朝倉さん、肌きれいですね」
「……なんね、急に」
「八日も霧の中にいて、これは、ずるい」
透は、天井を見上げた。
――無だ。
心の中で、そう唱える。
――今は影法師の仕事中だ。覗きは、今日はなし。絶対になし。
「林さんも、細いですね」
「研究所の食堂は、美味しくなかったんです。……朝倉さんの、それ、大きいですね。いつも迷彩服で隠れてるけど」
「……林さん」
「はい」
「声、小さく。そこに変態がおる」
――無だ。無になれ。
透は、祖父の顔を思い浮かべた。しわだらけの、日に焼けた、少しも色っぽくない顔。心拍は、大丈夫だ。このままいける。
給湯室の中で、朝倉さんの声が聞こえた。
「あ、石鹸……背嚢に入れたままやった」
少し間があって、扉の向こうから、低い声が飛んできた。
「今から、石鹸取りに出るけん。向こう向いとって。絶対、こっちば見んこと」
「……はい」
三人分の背嚢は、透のすぐ横の壁際に置いてあった。
扉の開く音がした。ぺた、ぺた、と濡れた素足が床を踏む音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
透は、天井の染みを数えた。一つ、二つ。
足音が、すぐ横で止まった。背嚢の口紐をほどく音。目の端に、白い素足が一歩だけ入ってきた。
心臓が、どくんと跳ねた。
透は、祖父の顔を、必死でもう一度思い浮かべようとした。祖父は、なぜかバスタオルを巻いていた。
心臓が、ばくばくと暴れ出した。もう祖父の顔も、バスタオルも、何も思い浮かばない。
「……今、こっちを見ようとしたやろ」
頭の上から、朝倉さんの声がした。氷のように平らだった。
「見てません。足が、ちょっと見えただけです」
朝倉さんが、透の横に回りこんできた。羽織っただけの迷彩服の上着と、濡れた髪が見えた。
「息が荒い」
ぱしん、と頭をはたかれた。
――なんでわかるんだ。
朝倉さんは何も言わずに給湯室へ戻り、今度は扉をきっちりと閉めた。
◇
十一月二十三日。箱崎のビルを出てしばらく歩いたところで、朝倉さんが足を止めた。
「……少しだけ、寄り道してもよか?」
初めて聞く声だった。命令でも、確認でもない。
「実家が、この先にあると。十分で済ませるけん」
朝倉さんの実家は、博多の古い住宅街にあった。二階建ての、小さな一軒家。玄関の鍵は、開いたままだった。
家の中は、空っぽだった。荒らされた様子はない。食卓に、湯呑みが二つ並んでいた。台所のホワイトボードに、丸っこい字が残っていた。
【葵へ 近くの小学校に避難します 母】
朝倉さんは、その字を指でなぞった。何も言わなかった。美雪さんは、玄関の外で黙って待っていた。
小学校は、歩いて五分のところにあった。体育館の扉は、開いていた。床に、毛布と段ボールが散らばっている。
誰も、いなかった。
透は、体育館の隅々まで気配を探った。心臓の音も、息も、何一つ聞こえなかった。床にも壁にも、血の跡はなかった。それだけが、救いだった。
「……どこかに、移ったんやね」
それから、朝倉さんはポニーテールを結び直した。
「行こう。予定より、遅れとる」
透は、何も言わずに先頭に戻った。
◇
昼過ぎ、三人は天神に着いた。
霧の底に沈んだ天神は、まるで巨大な墓地のようだった。百貨店のショーウィンドウが割れ、マネキンが歩道に倒れている。交差点の真ん中で、バスが横倒しになっていた。
そして、群れが多かった。
どの通りにも、灰色の背中がうろついている。その大半が、地下街への入口の周りに集まっていた。
「……当たりですね」
ビルの三階の窓から下を見て、美雪さんが小さく言った。
地下街への階段から、白い霧がゆっくりと溢れ出していた。地上の霧よりも、ずっと濃い。生き物が吐き出した息のように、ときどき脈打つように広がる。
「僕が下りて見てきます」
透が言うと、朝倉さんが眉をひそめた。
「一人で?」
「一人の方が、速いんで」
「……ライトは」
「要りません。暗いのは、慣れてるんで」
朝倉さんは、しばらく透の顔を見ていた。それから、胸ポケットから何かを取り出し、透の手に握らせた。黄緑色の、細いケミカルライトだった。
「折れば光る。何かあったら、それで知らせて」
「……使わないと思いますけど」
「持っていって」
透はケミカルライトを胸ポケットにしまった。
◇
地下街は、暖かかった。
それが、最初に感じたことだった。十一月の地上よりも、ずっと。湿った、生き物の口の中のような暖かさだ。
透は息を殺し、階段を一段ずつ降りていった。
店のシャッターが、内側から何かで覆われていた。白い、細い糸。蜘蛛の巣よりもずっと太くて、もっと湿っている。天井からも、壁からも、床からも。地下街全体が、ゆっくりと張り巡らされた菌糸に飲み込まれつつあった。
菌糸は、ときどき、わずかに脈打っていた。
――生きてるのか、これ。
通路を奥へ進む。群喰が、あちこちで体を丸めていた。眠っているのか、休んでいるのか。その体に、天井から垂れた菌糸が何本もつながっている。点滴でも受けているように見えた。
これが、補給。
通路の中ほど、以前は広場になっていた場所に、それはあった。
白い卵の塊だった。
ひとつひとつは、拳ほどの大きさ。半透明の膜の内側で、何かがゆっくりと動いている。それが、広場を埋め尽くすほど積み重なっていた。
そして、卵の塊の周りに。
ベビーカーが、一台。空っぽで、倒れていた。
ハンドバッグ。片方だけの靴。学生鞄。転がったスマートフォンの画面が、割れたままで曇っている。
ここに逃げ込んだ人たちがいたのだ。雨も風も届かない、安全な場所だと思って。
透は、しばらくそこから動けなかった。
そのとき。
卵の塊の向こうで、何かが首をもたげた。
人間ほどの大きさの、虚喰だった。けれど、頭が異様に大きい。頭だけで、体の半分はある。その頭には、目も口もなかった。ただ、耳のような襞が何重にも重なり合い、ゆっくりと開いたり閉じたりしている。
群喰とは、まるで別の種類だった。
その大きな耳が、ゆっくりと、透の方へ向いた。
透は、息を止めた。
心臓は、もう八まで落ちている。音は、何も立てていない。そのはずだった。
それでも、耳は、透の方を向いたまま、動かなかった。
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