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第15話 聴喰

――なんでだ。

透は、動かなかった。息もしなかった。大きな耳は、まだこちらを向いている。

音は立てていない。気配も消している。それなのに、あの耳は、確かに何かを拾った。

足の裏が、かすかに温かかった。

透は、視線だけを下へ落とした。

靴の下で、白い菌糸が脈打っていた。床一面を覆う糸の上に、透は立っている。その糸は、広場の奥へ、卵の塊へ、そしてあの大きな耳の襞の根元へと、一本の切れ目もなくつながっていた。

――糸電話だ。

足音は消えていても、体重は消せない。一歩踏み出すたびに、糸がわずかにたわむ。そのたわみが糸を伝って、あの耳の中で音に変わっている。

耳の襞が、ゆっくりと開いた。

広場のあちこちで、丸まっていた群喰が、一体、また一体と首をもたげた。触手が、透の立っているあたりへ向いていく。音もなく。まるで、誰かに呼ばれたように。

――あいつが、教えてるのか。

透はポケットの空き缶を、通路の入口の方へ、低く放った。

からん、と乾いた音。

群喰は、振り向かなかった。

大きな耳だけが、一瞬そちらへ傾き、すぐに戻ってきた。そして群喰たちは、さっきよりも確かな足取りで、透の方へ近づいてくる。

缶が落ちただけで、そこに糸を踏むものがいない。それを、あの耳は聞き分けている。

――囮が、利かない。

初めてのことだった。

◇

群喰の触手が、足元の糸を探りながら、すぐそこまで迫っていた。気配は拾えなくても、糸が教えた場所を手探りされれば、いずれ体に触れる。

透は、上を見た。

天井に、太い配管が走っている。空調か何かの、銀色の断熱材を巻いた管だ。そこにも菌糸は絡みついていたが、床ほど密ではない。

しゃがみ込んで跳ぶ。その一瞬の沈み込みが、糸を伝っていくのがわかった。

配管に指をかける。体を引き上げる。管の上に腹ばいになり、そのまま息を止めた。

真下を、群喰が通り過ぎていく。さっきまで透が立っていた場所で、群喰たちは立ち止まり、鼻先で菌糸を探った。何もいない。触手が、苛立ったように震える。

大きな耳が、ゆっくりと広場を見回すように、向きを変えていった。

透は配管の上を、少しずつ通路の入口の方へ戻っていった。管の継ぎ目ごとに、息を止めて待つ。三十メートルに、ニ時間かかった。

◇

「……糸を伝って、聞いてる?」

ビルの三階に戻った透の話を聞いて、美雪さんは考え込んだ。

「菌糸は、苗床と虚喰をつなぐ道です。夜霧を通すための。それを、糸電話のように使っている。糸の揺れが、そのまま音になって耳に届くんです……」

「奥に、頭がやたら大きいやつが一体いました。体の半分くらいが頭で、その頭が耳みたいな襞だらけで。そいつが、他の個体に場所を教えてました」

「……たぶん、『聴喰(ききばみ)』です。研究所ではそう呼んでいました。群喰は音と気配の両方で獲物を探しますが、聴喰は耳に特化した種類です。群喰よりずっと遠くの、ずっと小さな音まで拾える」

美雪さんは、そこで一度、言葉を切った。

「研究所では、一体しか捕まえられませんでした。数が少ないんです。たぶん、苗床が一つできるたびに、一体ずつ生まれる。苗床の周りの音を、全部拾うために。群れの耳を、一体で担っている。苗床の番人なんでしょうね」

朝倉さんは、窓の下の地下街の入口をじっと見つめていた。

「あれを倒せば、苗床は潰せる?」

「たぶん。少なくとも、群れは耳を失う」

「……撃つ」

短い言葉だった。

◇

日が暮れてから、三人は地下街への階段を下りた。

朝倉さんは、階段の踊り場で片膝をついた。そこからなら、広場へつながる通路がまっすぐ見通せる。距離は、五十メートルほど。美雪さんは、その後ろの階段に身を伏せている。

透は、二人の前で、通路の奥を見つめていた。

「……見えん」

朝倉さんが、囁いた。

当然だった。地下街には、明かりが一つもない。非常灯も、とっくに電池が切れていた。その上、地上よりずっと濃い霧だ。

透にも、見えてはいない。けれど、聞こえていた。闇の奥で、耳の襞がゆっくりと開いたり閉じたりする、湿った音。祖父との夜の散歩で身につけた「闇眼(やみめ)」だ。目ではなく、音や空気の揺れで、闇の中の形をつかむ。朝倉さんには、その音も聞こえていない。

「ライトは、使えないんですか」

透が尋ねると、美雪さんが首を振った。

「この霧です。光を当てても、白く濁るだけです」

地下街の夜霧は、地上よりずっと濃い。光を入れれば、その先は乳白色の壁になる。

「……僕、だいたいの場所ならわかりますよ」

「この暗さで?」

「音です。あいつの耳、開いたり閉じたりするたびに、小さく鳴ってるんで」

短い沈黙があった。

「……位置だけ教えて」

朝倉さんが、透の袖を引いた。

「右から三本目の柱の、少し左。高さは、人の胸くらい。ただ、うごいてます」

朝倉さんは、小銃の銃口を、ゆっくりと闇の奥へ向けた。

その銃口の先が、階段の手すりに絡みついた菌糸に、かすかに触れた。

闇の奥で、大きな耳が、ぱっとこちらを向いた。

「――左へ動きました。卵の塊の向こうに」

朝倉さんは、引き金を引かなかった。見えないものは撃てない。

闇の奥で、群喰がいっせいに首をもたげる気配がした。

「……来ます」

「何体」

「たくさんです」

◇

階段を駆け上がった。

もう、足音を消している余裕はなかった。群喰は、もう通路をこちらへ駆けてくる。一体、二体、その後ろにも。

美雪さんが、階段の途中で足をもつれさせた。

透は振り返りもせず、美雪さんを肩に担ぎ上げた。米俵のように。美雪さんが小さく悲鳴を上げかけて、自分の手で口を塞いだ。

地上へ出る。朝倉さんが、階段の出口の脇にたどりついて、一瞬だけ振り返った。

「先に行って」

「朝倉さん」

「よかけん」

階段の出口から、最初の群喰が首を出した。

朝倉さんの銃口が、火を吹いた。一発。群喰の頭がのけぞり、階段を転げ落ちていく。その後ろから二体目。二発。三体目。

銃声が、霧の天神に響き渡った。

通りという通りから、灰色の背中がこちらへ向きを変える。

「……朝倉さん、もういいです」

「まだ来る」

「上からも来ます。周り中から」

朝倉さんは、周りの通りを見て、そこでようやく銃口を下げた。小銃が、熱を帯びている。

透は美雪さんを担いだまま、空いた手で朝倉さんの手首をつかんだ。

「――こっちです」

そのときの朝倉さんがどんな顔をしていたか、透は見ていない。後ろを振り返る余裕はなかった。

◇

三人がたどりついたのは、天神の裏通りにある、古い雑居ビルの七階だった。

外では、まだ群れがうろついている。窓に近づくと、通りを灰色の背中が埋め尽くしているのが見えた。銃声に引き寄せられた群れは、しばらくここを離れないだろう。

美雪さんは、床に座り込んだまま、肩で息をしていた。「米俵……」と、小さく呟いている。

朝倉さんは、壁に背中を預けて小銃を抱えていた。

「……私のせい」

「そうですね」

透は、素直に答えた。

朝倉さんが、少しだけ目を見開いた。たぶん、否定されると思っていたのだろう。

「でも、あそこで撃たなかったのは、正解だと思います。撃ってたら、たぶん三人とも地下で全滅でした」

朝倉さんは、何も言わなかった。

「あと、階段で三体、一発ずつでしたよね。あれ、ちょっとどうかしてると思います」

「……褒めよると?」

「引いてます」

朝倉さんは、ふいと窓の方を向いた。その口元が、ほんの一瞬だけ、ゆるんだような気がした。

けれど、それを確かめる前に、彼女はもう小銃の弾倉を外して、残りの弾を数え始めていた。

「……残り、二十一発」

低い声だった。

「次は、一発で終わらせるけん」

お読みいただきありがとうございます。

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