第16話 耳を潰す
夜が明けても、群れは雑居ビルの周りから離れなかった。
七階の窓の隙間から見下ろすと、裏通りに灰色の背中が転がっている。じっと、動かない。眠っているのではなく、待っているのだと透にはわかった。
「……帰るにも、しばらく無理ですね」
「帰らん」
朝倉さんは、小銃を拭きながら言った。
「あれを倒すまでは」
美雪さんは、床に座って自分の膝を抱えていた。さっきからずっと、何かを考え込んでいる。ときどき、指で床に数字のようなものを書いては、消す。
やがて、彼女が顔を上げた。
「……研究所で、一度だけ、聴喰が後じさりしたことがありました」
「後じさり」
「機械室で、発電機が故障したとき。あちこちで警報が鳴って、そのとき、檻の中の聴喰が、頭を壁に打ちつけ始めたんです。どこから音がしているのか、わからなくなったみたいに」
美雪さんは、自分の耳を両手で覆うようにしてみせた。
「聞こえすぎる耳は、うるさすぎる場所で混乱する。一つの音なら場所がわかる。でも、周り中から同時に鳴らされたら、どれが本物か、わからなくなる」
「……その間なら、多少の音は気づかれない。でも、さすがにあいつのそばまでは行けませんね。足元は菌糸だらけだし、周りには群喰が固まってる。どれだけ周りがうるさくても、すぐ近くで糸を踏めば、たぶん感づかれます」
透が言うと、美雪さんがうなずいた。
「ええ、近づくのは無理です。でも、離れたところで何か仕掛ける音も、朝倉さんが構える音も、全部その中に紛れます。それに、混乱したあれは、頭を大きく振り回す。……どこにいるかは、かえって目立つかもしれない」
朝倉さんが、小銃を拭く手を止めた。
「それでも、私には見えん」
「影なら、見えると思います」
透は、窓の外の霧を顔で示した。
「この霧、光を当てると白く濁って、壁みたいになるんですよね。だったら、あいつの後ろから強い光を当てれば、霧が幕になって、頭の影が浮かぶと思うんです」
美雪さんが、はっと顔を上げた。
「……影絵」
「はい。あいつには目がないんで、光には気づきません」
「……影を、撃てと」
「得意ですよね、たぶん」
「撃ったことなか」
「じゃあ、初めてですね」
朝倉さんの眉間に、この三日間で一番深い縦皺が寄った。
「……簡単に言うね」
「朝倉さんなら、当てると思うんで」
朝倉さんは、しばらく黙って透の顔を見ていた。それから、また小銃を拭き始めた。
「……当てるけん。ちゃんと照らしとってよ」
それから、透の胸ポケットを顔で示した。天神に着いた日に渡した、あのケミカルライトが入っている。
「準備ができたら、それで知らせて」
◇
透は、昼間のうちに天神中を回った。
電気は来ていない。だから、電池で動くものだけを集めた。
雑貨屋の棚から、目覚まし時計をニ十個。台所用品売り場から、長時間タイプのキッチンタイマーを十五個。それから、家電店の倉庫の奥で、電池式の大きなLEDライトも。電池は、レジの後ろの棚に並んでいた。
全部をリュックに詰め、雑居ビルに戻ったときには、もう日が傾きかけていた。
透は床に座り込み、一つずつ時計のアラームを合わせていった。
全部、午前三時ちょうど。
これを、今夜のうちに、地下街中に置いてくる。菌糸の密な床の上ではなく、天井の配管や、シャッターの上の細い縁や、消えた看板の裏に。広場を取り囲むように、どこからでも音がするように。
それから、LEDライト。こちらは、広場の一番奥、卵の塊の向こうの配管に。光は、聴喰の背中越しに、階段の方へ向けて。
「……一人で?」
朝倉さんが聞いた。
「一人の方が、速いんで」
「その言い方、もう聞き飽きた」
それでも、朝倉さんは止めなかった。
◇
透が地下へ下りていったあと、雑居ビルの七階には、二人だけが残された。
窓の外は、もう真っ暗だった。小さなマグライトを、布で覆って床に置いている。そのわずかな明かりだけが、部屋の真ん中をぼんやりと照らしていた。
「……朝倉さん」
美雪さんが、小さな声で言った。
「なに」
「あの人のこと、どう思っていますか」
朝倉さんは、小銃の弾倉を、もう一度指で確かめた。
「……民間人。監視対象」
「それだけ?」
「覗き魔」
「それも、本当ですね」
美雪さんは、くすっと笑った。それから、膝を抱えたまま、少しだけ朝倉さんの方へ身を寄せた。
「船の下で、あの人の心臓を聞いていたとき、思ったんです。この人の心臓は、危険な状況でも冷静で少しも速くならないんだなって」
「……」
「でも、私がそばにいたら、少しだけ速くなった。女の体がくっついただけで。すごく、わかりやすく」
朝倉さんの手が、弾倉の上で止まった。
「……それ、私に言う必要あると?」
「ありません。ただ、朝倉さんがそばにいるときは、もっと速いのかなって。科学的な興味です」
「……林さん」
「はい」
「もう寝て」
美雪さんは、素直に毛布をかぶった。けれど、その下でまだ小さく肩を揺らしていた。
朝倉さんは、小銃を抱えたまま、窓の外の闇を見つめていた。
地下のどこかで、今、あの男は一人で、怪物の頭の上を歩いている。
ふと、彼女は自分の胸に手を当てた。
それから、自分でも何をしているのかわからないという顔で、その手を下ろした。
◇
地下街では、透が天井の配管の上を這っていた。
一つ置くたびに、息を止めて待つ。聴喰の耳がこちらを向かないか。群喰が首をもたげないか。時計を置くときの、わずかな「こつん」という音さえ、布で包んで消した。
三十個を超えたあたりから、指先の感覚がなくなってきた。
一度だけ、配管の継ぎ目で足が滑った。体が傾き、リュックの中の時計同士が、かちゃりと小さく当たった。
聴喰の耳が、ゆっくりとこちらを向いた。
透は配管にしがみついたまま、動かなかった。心臓を八に沈め、息を止め、一分、二分。耳は、まだこちらを向いている。
三分。
耳が、ようやく別の方へ向きを変えた。
透は、音もなく息を吐いた。顔の後ろを、冷たい汗が伝っていく。
――これ、普通の大学生がやることか。
心の中で毒づいてから、また次の時計を取り出した。
三十三個目。三十四個目。
最後の一つを結びつけ、卵の塊の奥の配管にLEDライトをくくりつけ終えたとき、腕時計の針は、午前二時五十分を指していた。
透は、胸ポケットのケミカルライトを、そっと握りしめた。
あと十分。
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