第17話 一発
午前二時五十九分。
透は、卵の塊の奥の配管の上で、息を殺していた。
すぐ横に、LEDライト。そのスイッチに、指をかけている。胸ポケットには、ケミカルライト。
眼下で、聴喰は卵の塊に寄り添うようにして、じっとしていた。大きな耳が、ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返している。地下街じゅうの音を、一つ残らず吸い込んでいるように。
――せいぜい、よく聞いとけ。
秒針が、十二を指した。
――ジリリリリリリリ。
天井のどこかで、最初の目覚まし時計が鳴った。
それが、合図だった。
右のシャッターの上で。左の看板の裏で。通路の奥で。広場の真上で。ベルが、電子音が、キッチンタイマーの甘ったるい音が。
地下街全体が、一つの巨大な目覚まし時計になった。
聴喰が、跳ね起きた。
大きな耳が、右へ向き、左へ向き、上へ向き、また右へ。襞がばらばらに開き、閉じ、また開く。そのたびに、大きな頭が、むちゃくちゃに振り回される。
広場の群喰たちも、一斉に立ち上がった。あるものは右へ、あるものは左へ。互いにぶつかり合い、指示を待つように聴喰の方を振り向き、それからまた、わけもわからず音の方へ駆けていく。
透は、LEDライトのスイッチを入れた。
白い光が、聴喰の背中越しに、階段の方へ突き抜けた。
霧が、光った。地下街の濃い夜霧が光を吸い込み、乳白色の巨大な幕になる。その光をさえぎって、聴喰の大きな頭が、黒い影になって浮かび上がった。
聴喰は、気づかない。あれには、目がない。
透は、胸ポケットのケミカルライトを折った。ぱき、という音は、目覚ましの洪水に飲み込まれた。黄緑色の光を、体の横で大きく振る。
――今です。
それから、ケミカルライトを握ったまま、配管の上に低く伏せた。
――僕はここです。撃つなら、その下を。
◇
階段の踊り場で、朝倉さんは片膝をついていた。
五十メートル先の闇の奥が、ふいに白く光った。
霧が、光の幕になっていた。その真ん中に、何か大きな影が浮かんでいる。右へ、左へ、上へ。むちゃくちゃに揺れている。
輪郭はぼやけていた。けれど、影は黒い帯になって霧の中をこちらへまっすぐ伸びてくる。その根元に、頭がある。
右の看板の裏で、キッチンタイマーが鳴った。帯の根元が、ぐいと右へ振れる。左の天井で、ベルが鳴った。今度は左へ。新しい音が鳴るたびに、影は迷わずその方を向く。
――音を追いかけている。
あれは、耳だ。あの帯の根元で振り回されているのは、聴喰の頭だ。
その影の少し上で、黄緑色の小さな光が大きく揺れた。
――準備ができたら、それで知らせて。
「……来た」
朝倉さんは、息を吐いた。吐ききって、止める。
耳を引き裂くような目覚ましの音も、自分の心臓の音も、遠くなる。照準の向こうに、白い幕と、黒い影だけが、妙にくっきりと見える。
影は、まだ揺れている。右へ。左へ。
待つ。
彼女は、揺れのリズムを視線でなぞっていた。右。左。そして、方向を変えるその瞬間だけ、影はほんの一瞬、止まる。
右。
左。
――そこ。
一発。
白い幕の中で、黒い影が弾かれたようにのけぞり、それから、ゆっくりと沈んでいった。
◇
透は、配管の上から、倒れていく聴喰を見ていた。
大きな頭が、卵の塊にもたれかかるようにして、動かなくなる。耳の襞が、一度だけ大きく開いて、そのまま閉じなかった。
その瞬間、足の下の菌糸の脈が、乱れた。
さっきまで一つのリズムで脈打っていたものが、ばらばらに、でたらめに震え始める。
広場の群喰たちが、足を止めた。触手が、迷子のように宙を探る。それから、一体、また一体と、よろけながら通路の奥へ散っていく。さっきまでの、あの一つの意志を持っているような動きではなかった。
やがて、階段の方から、小さな光が近づいてきた。
朝倉さんのライトだった。その後ろに、美雪さん。
「……無事?」
「無事です」
朝倉さんのライトが、配管から下りてきた透の顔を照らした。それから、足元の卵の塊を。それから、倒れた聴喰を。
大きな頭の、耳と耳のあいだに、小さな穴が一つ開いていた。
「……影を撃ったの、初めてですよね」
「初めて」
朝倉さんは、透の手の中でまだぼんやりと光っているケミカルライトに、ちらりと目をやった。
「……合図、よう見えた」
「朝倉さんも、ちゃんと当てましたね」
朝倉さんは何も答えず、ふいと聴喰の方へ目を戻した。
美雪さんが、卵の塊の足元にしゃがみ込んだ。菌糸をたどるように指でなぞり、やがて、卵の塊の一番下を指さした。
「……ここです。菌糸が、全部ここに集まっている」
卵の塊の底に、拳二つ分ほどの、白い結節があった。弱々しく、でたらめに脈打っている。
「これを切れば、苗床は止まります」
透は、腰の後ろの小刀を抜いた。
結節は、思ったよりも硬かった。二度、三度と刃を入れる。四度目で、結節が二つに裂けた。白い汁が、じわりと床に広がる。
卵の塊の、半透明の膜が、内側から曇っていった。うごめいていた何かが、動かなくなる。
天井から垂れていた菌糸が、少しずつ灰色に変わっていく。
あちこちで鳴っていた目覚まし時計の音も、一つ、また一つと鳴りやんでいった。群喰が戻ってくることはなかった。
◇
夜が明ける前に、三人は雑居ビルに戻った。
裏通りの群れは、まとまりを失っていた。ばらばらに通りをうろつき、わけもなく立ち止まっては、また歩き出している。三人は息を止めて距離を取りながら抜けていった。
「……苗床が止まって、このあたりの根の流れが乱れているんです。夜霧も、もうここでは補給できない。しばらくは、まとまって動けないはずです。……でも、巣がある限り、群れはまた集まってくる」
美雪さんが、小さく言った。
七階の部屋に戻ると、美雪さんはそのまま床に崩れ落ち、毛布をかぶって一分もしないうちに寝息を立て始めた。
透も、壁に背中を預けて座り込んだ。指先の感覚は、まだ戻っていない。
朝倉さんは、窓際に立っていた。小銃を肩から下ろし、窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて、窓の方を向いたまま、言った。
「……助かった」
透は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……今の、僕にですか」
「他に誰がおると」
「美雪さんが」
「寝とる」
朝倉さんは、一度もこちらを振り向かなかった。ただ、窓に映った彼女の横顔は、ほんの少しだけ、耳が赤かった。
――あ、この人、こういうのも苦手なんだ。
透は、頭の中の引き出しに、もう一つそれをしまった。
◇
二日後の夜。三人は、箱崎のあのオフィスビルに、もう一度泊まっていた。
帰り道の群れは、行きのときより明らかに少なかった。いても、動きが鈍い。苗床を失ったことが、東区の群れにも届いているのだと、美雪さんは言った。
透は、一人で屋上に上がっていた。見張りの番だった。さっき、給湯室の前を「たまたま」通りかかったところで、また頭をはたかれたばかりだ。今度は、本気で痛かった。
霧は、いつもより少しだけ薄かった。
博多湾の向こう、志賀島の黒い影が、うっすらと見えている。
その上の空を、何かが横切った。
鳥よりもずっと大きい。翼を広げた影が、音もなく、霧の上をゆっくりと旋回している。一つ。その後ろに、もう一つ。
透は、息を止めたまま、それを見つめていた。
背後で、扉が開く音がした。美雪さんだった。交代の時間には、まだ早い。眠れなかったのだろう。
透は黙って、空を指さした。
美雪さんの顔から、血の気が引いていくのが、暗がりでもわかった。
「……羽喰」
「はねばみ?」
「空を飛ぶ虚喰です。濃い夜霧の中でしか飛べない。だから、門のある島の周りからは離れないと、私たちは考えていた」
美雪さんは、自分の両腕を抱きしめるようにした。
「……霧が、広がっているんです。私たちが思っていたよりも、ずっと速く」
羽を広げた影は、しばらく島の上を旋回してから、霧の奥へと消えていった。
透は、苗床を一つ潰したことで、状況がかなり好転すると思っていた。
けれど、それは、この霧の中の、たった一つでしかなかった。
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