第18話 回収隊
十一月二十七日。三人が中学校に戻ると、非常階段の下で古賀さんが両手を振った。
「おかえり! ……あんたら、天神で何してきたと?」
「何かあったんですか」
「あったも何も。二日ぐらい前から、あいつらの動きがえらい鈍うなっとってな。堤先生が、何かあったんじゃないかって」
美雪さんが、小さくうなずいた。朝倉さんは何も言わずに階段を上っていく。
透は、古賀さんに答える代わりに、一つだけ聞いた。
「留守の間、塩崎さんはどうしてましたか」
「塩崎さん? どうもこうも、いつもどおりたい。……あ、でも、昨日はやけに機嫌がよかったな。もうすぐここから出られるとか、変なこと言いよったけど」
透は、何も言わなかった。
天神へ発つ二日前の夜、透は校舎の裏のフェンスの外で、塩崎が誰かと話しているのを見ていた。霧の向こうに立っていたのは、黒い服の男だった。男は、塩崎に段ボールを一箱渡していた。缶詰と、煙草のカートンが覗いていた。
闇取引だと、そのときは思った。前から、そういうことをしている男だ。証拠もないし、まあいいかと、放っておいた。
あの黒い服の男が何だったのか、今ならわかる。
――まずいな。
透は、階段を駆け上がった。
◇
「……それを、今まで黙っとったと」
美術準備室で、朝倉さんの声は、低かった。
「あのときは、ただの闇取引だと思ったんで」
「闇取引も、報告せないかんことやろ」
「誰にですか」
朝倉さんは、一瞬、言葉に詰まった。
「……私に」
「朝倉さん、あのときまだ僕のこと信用してなかったじゃないですか」
「今もしとらん」
「ですよね」
朝倉さんは、小さく舌打ちした。それから、小銃を肩にかけ直した。
「今夜の見張りを増やす。松尾たちにも声をかける。林さんは、今夜はここで寝て」
「ここって、美術準備室ですか」
美雪さんが、狭い部屋を見回した。
「この人と一緒に?」
「この人のそばが、一番見つかりにくい」
朝倉さんは、そこで一度言葉を切った。
「……ただし、変なことをしたら、私が撃つ」
「それ、どっちに言ってますか」
「もちろん、あなた」
美雪さんが、小さく吹き出した。
◇
午前三時。
非常階段の踊り場で、朝倉さんは小銃を構えていた。
霧の底の校庭に、動くものはない。群れは、今夜は一度も来ていなかった。
その、動かない校庭の端で、何かがただ、まっすぐに立ち上がった。
人の形だった。
虚喰は、立たない。四本の脚で、鼻先を地面に近づけて歩く。あんなふうに、二本足で、低く構えて、一歩ずつ地面を確かめるように歩くものは、人間しかいない。
一人。二人。五人。
――来た。
朝倉さんは、反射的に指を引き金にかけた。そのとき、霧の向こう、校庭のもっと奥、向かいのマンションの屋上で、何かが、一瞬だけ光った。
彼女は、考えるより先に身を伏せた。
背後の外壁に、何かがめり込む音がした。さっきまで自分の頭があった、その真後ろだった。
銃声は、ほとんど聞こえなかった。
――狙撃手。
向かいのマンションまで、二百メートル以上。
朝倉さんは、手すり壁の陰から、ほんの少しだけ顔を出した。さっきの光の位置。霧の向こう。何も見えない。それは、向こうも同じはずだ。
それなのに、向こうは、こちらの頭の位置を知っていた。
――見張りの場所を、教えた人間がいる。
朝倉さんは、手すり壁の陰に小銃を置き、そのまま五メートル、床を這った。踊り場の反対側の手すりの隙間から、銃口だけを出す。
さっきの光の位置に、照準を合わせる。霧だ。何も見えない。
それでも、彼女は引き金を引いた。
一発。位置を少しずらして、もう一発。
向かいの屋上で、何かが動く気配がした。当たってはいない。ただ、向こうも、こちらがただの見張りではないと知ったはずだった。
霧の向こうとこちらで、二人の狙撃手が、互いの姿を探し始めた。
◇
足音で、透は目を覚ました。
廊下の床を、裸足ではない何かが、そっと踏む音がしたのだ。この四階で、靴を履いて歩く人間はいない。
「――美雪さん」
毛布の中で眠っていた美雪さんの口を、手で塞いだ。
「声を出さないで。来ました」
美雪さんの目が、闇の中で大きく見開かれた。
美術準備室の天井には、点検口がある。給湯室の天井裏へ、そのままつながっている。一週間前に、透が安全確認のために歩いた経路だった。
透は美雪さんを天井裏へ押し上げ、自分もこの上へ上がって、点検口の蓋をそっと閉めた。
埃だらけの梁の上で、二人は腹ばいになった。
「……ここ、よく知ってますね」
美雪さんが、息だけの声で言った。
「安全確認で、一度」
「……朝倉さんが、給湯室で話していた、あの天井の話ですか」
透は、何も言わなかった。
遠くで、銃声が二つ鳴った。
その直後、下で、美術準備室の扉が開く音がした。
黒い服の男が、二人。小さなライトで部屋を照らす。空の毛布。まだ温かいはずだ。男の一人が、毛布に手を当て、低い声で何か言った。
ライトが、天井へ向いた。
透は、美雪さんの肩に手を置いた。
息を吐いて。吐ききって。止めて。
言葉にしなくても、美雪さんはわかったようだった。この一週間で、彼女はそれを何度も練習していた。
ライトの光が、点検口の蓋の隙間から、天井裏に細く差し込んでくる。
やがて、それはほかへ移っていった。
◇
廊下の向こうから、叫び声が上がった。
「――班長のところには行かせんぞ!」
松尾の声だった。もみ合う音。うめき声。それから、子どもの悲鳴。
「――やだぁ! お母さんっ!」
ひなたの声だ。
「――その子に触るなっ!」
しわがれた、けれど腹の底からの声だった。大庭さんだ。銃床で老人を殴りつける鈍い音が、二度、三度、廊下に響いた。それでも、ひなたを離せと叫ぶ声は止まらなかった。
透の心臓が、一つ、大きく跳ねた。
「……動かないで」
美雪さんが、透の袖をつかんでいた。
「今下りたら、あの人たちは、あなたも私も見つける」
透は、梁を握りしめた。
やがて、校舎の外で、群れが鳴き始めた。銃声に引かれたのだ。校庭を、爪の音が埋めていく。
黒い服の男たちの足音が、非常階段の方へ遠ざかっていった。
◇
夜が明けたとき、四階の廊下は静まり返っていた。
いなくなったのは、三人だった。
松尾。ひなた。そして、ひなたを渡すまいと、最後まで黒い服の男にしがみついていた大庭さん。
ひなたの母親の由美さんが、廊下の床に座り込んで、声も出さずに泣いていた。堤先生が、その肩を抱いている。非常階段の前には、大庭さんの杖が、二つに折れて転がっていた。
朝倉さんは、非常階段の踊り場で、外壁にめり込んだ弾を、指でほじり出していた。
「……二百メートル以上。この霧の中で」
彼女は、弾を小さく握りしめた。
「……強い」
その声は、恐れではなかった。もっと違う、狙撃手が狙撃手に向ける、何かだった。
そのとき、廊下の奥で、古賀さんが一枚の紙を掲げた。
「……非常階段の扉に、これが。ナイフで留めてあった」
たどたどしい日本語で、こう書かれていた。
【影法師へ。今日の日没。香椎宮の前の交差点。一人で来い】
透は、紙を見つめたまま、動かなかった。
廊下の端で、塩崎の姿が、どこにも見当たらないことに、まだ誰も気づいていなかった。
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