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第19話 怒り

「……罠たい」

美術準備室で、朝倉さんは、紙を机に叩きつけた。

「影法師をおびき出して、捕まえる。それで林さんの居場所を吐かせる。三人は、そのための餌」

「でしょうね」

「行かせん」

透は、小刀をベルトの背中側に差し直していた。

「行かないと、三人はどうなりますか」

朝倉さんは答えなかった。答えを知っているからだ。

「……私も行く」

「一人で来いって、書いてありますよ」

「だけん、私は見えんところにおる」

朝倉さんは、小銃の弾倉を入れ替えた。残りは、もう少ない。

「あの狙撃手は、きっとまたどこかの屋上におる。あなたは見つからん。でも、三人を連れて逃げるときは、三人が見つかる」

「……」

「そのときは、私があの人を押さえる」

美雪さんが、部屋の隅で両手を握りしめていた。

「……私が行けば、三人は返してもらえるかもしれない」

「返しませんよ」

透は、あっさり言った。

「冷酷な連中です。小さな女の子を、平気でさらうんです。わかりますよね?」

美雪さんは、何も言えなくなった。

◇

日没の少し前。香椎宮の参道が、大通りと交わる交差点。

透は、交差点に面した古い店の軒先で、息を殺していた。

交差点の真ん中の電柱に、三人が縛られていた。

背中合わせに、一本のロープで。松尾は顔を腫らし、片目が開いていない。大庭さんは、額が切れて、白髪に乾いた血がこびりついている。それでも顔を上げ、霧の奥をにらんでいた。そして、その間に挟まれるようにして、ひなたがいた。

ひなたの口には、ガムテープが貼られていた。その上の頬に、涙の跡が乾いて、白い筋になっている。

ひなたは、もう泣いていなかった。

鼻で、一生懸命に息をしていた。吐いて、止めて、ゆっくり吸う。うまくできていない。それでも、ひなたは、公園で透の胸の音を聞きながら覚えたとおりに、必死でそれをやっていた。

交差点の向こうから、群れが近づいてくる音がした。

この交差点は、日没になると群れが通る。透の地図にも、大きなバツがついている場所だ。それを、あの男たちは知っていた。

影法師が来なければ、三人は群れに食われる。影法師が来れば、三人を助けようとして、何かをする。その「何か」を、屋上から待っている。

――よくできてる。

透は、交差点の四方の屋上を、一つずつ見た。霧で、何も見えない。それでも、どこかにいる。

ひなたの目が、一瞬だけ、透のいる軒先の方を向いた。

見えているはずはない。ただ、そちらに何かがあるのを、何となく感じたような目だった。その目が、少しだけ潤んだ。

その頬の涙の跡を見た瞬間、透の体の奥で、何かが熱くなった。

――六歳の子に、こんなことをするのか。

心臓が、一つ大きく打った。

八から、二十。四十。

――まずい。

わかっていた。わかっていて、止められなかった。沈めようとすればするほど、ひなたの頬の涙の跡が、頭の中で大きくなっていく。

六十。

交差点に、群れの先頭が入ってきた。

その一体が、ふいに首をもたげた。電柱の三人ではなく、交差点の端の、古い店の軒先の方へ。

透の方へ。

◇

――見つかった。

虚喰に見られるのは初めてだった。

群喰が、一体、また一体と、こちらへ向きを変える。触手が、まっすぐに透を指している。

逃げれば、助かるかもしれない。店の奥の裏口から、周りの庭を抜けて。

けれど、その後ろで、ひなたは群れに食われる。

「……お兄ちゃんの、胸の音を聞いてください」

ひなたに言った言葉が、頭の中で、ふいに鳴った。

あのとき、ひなたは、透の胸の音を聞いて、自分の心臓を落とした。たった六歳の子が。

それなら、自分にもできないはずがない。

透は、息を吐いた。

吐ききって、止める。後ろを振り返らずに、自分の心臓の音だけを聞く。速い。乱れている。それを、一拍ずつ、縄をたぐるように引き戻していく。

四十。二十。

先頭の群喰が、五メートルの線の、すぐ外側で足を止めた。

十。八。

触手が、迷ったように震えた。それから、ゆっくりと、電柱の三人の方へ向きを戻していく。

透は、動いた。

◇

群れの間を縫って、電柱にたどり着く。

小刀で、ロープを切る。三人の体が、ずるりと崩れそうになるのを、両腕で支えた。

松尾の片目が、うっすらと開いた。大庭さんが、ふっと口の端を上げた。ひなたが、大きく目を見開いた。

「――声を出さないで」

透は、三人にだけ聞こえる声で言った。

「僕につかまってください。ひなたちゃん、公園でやったやつです。お兄ちゃんの胸の音、聞いてください。松尾さんも、大庭さんも、この子に合わせてください」

群喰が、もう一体、交差点に入ってくる。五体。六体。その触手が、三人の心臓の音を探して、こちらへ伸びてくる。

透は、三人を抱き寄せた。

息を吐く。吐ききって、止める。それから、ほんの少し吸う。

ひなたが、先に合わせてきた。公園で、一度だけ一緒に沈んだ、あの息だった。その小さな胸の動きに、大庭さんが、松尾が、つられるように合わせていく。

公園で一緒に沈んだときの感覚が、そのまま腕の中に戻ってきた。

あのときは、何が起きたのかわからなかった。今は、わかる。

自分の鼓動で、他人の鼓動を引いて、一緒に沈める。

――影縫い(かげぬい)。

三人の心臓が、透の鼓動に引き寄せられるように、ゆっくりと、沈んでいった。

群喰の触手が、三人の肩のすぐ横で、空を探った。たった今までそこにあったはずの気配を。

◇

一歩。二歩。

四人は、一つの影のようになって、群れの間を歩いた。

――早く、物陰に。

屋上のどこかで、狙撃手がこちらを狙っているはずだった。虚喰には見えなくても、人間の目には、群れの中を歩く四つの人影が見えているかもしれない。

三歩。四歩。

撃ってこなかった。

交差点の真ん中は、霧が少し薄かった。屋上からなら、ロープの切れた電柱も、そこから離れていく影も、見えているはずだった。

五歩。

まだ、撃ってこない。

――見えていないのか。

群喰の触手をすり抜けるように、人間の目も、すり抜けているのか。それとも、見えていて、撃たないのか。

どちらなのか、透にはわからなかった。わからないまま、足を前へ出した。

そのとき、霧の向こうで、銃声がした。

一発。こちらへではない。交差点の北側、マンションの屋上の方へ。

少し遅れて、その屋上からも、もう一発。

――朝倉さんだ。

霧の向こうで、二人の狙撃手が、また互いを探している。その間、あの男の銃口は、こちらを向いていない。

銃声に、群れが一斉に首を向けた。四人とは、反対の方へ。

十歩。二十歩。

交差点を抜け、参道の片側に並んだ石灯籠(とうろう)の影を伝い、古い民家の庭に滑り込む。

三分。

そこで、糸が切れた。

三人の心臓が、どくんと一斉に跳ねるのが、腕に伝わってきた。それと同時に、透の膝から、すっと力が抜けた。

庭の土の上に、両膝をつく。

体の奥から、公園のときと同じ、あのせり上がるような吐き気が来た。いや、あのときよりずっとひどい。指先が、冷たく痺れている。

「……お兄ちゃん」

ひなたが、自分で口のガムテープを剥がしていた。その頬に、今度こそ涙が流れている。

「……泣かんかったよ。ひなた、ずっと、お兄ちゃんの音、聞いとった」

「……知ってますよ。見てたんで」

透は、それだけ言うのがやっとだった。

その横で、大庭さんが、荒い息のまま、くつくつと笑っていた。

「……三分。若い頃に、戻ったごたる」

◇

そのとき、参道の向こうから、悲鳴が聞こえた。

だみ声の、太い男の声だった。

「――約束が違うやないか! 船に乗せてくれるって!」

塩崎だった。

霧の中を、山のような体が、よろけながら走ってくる。その後ろを、群喰が三体、追っていた。

――置いていかれたんだ。

影法師を釣るための、もう一つの餌として。あるいは、ただ用済みになって。

透は、庭の土に手をついたまま、それを見ていた。

体は、動かなかった。動かないというより、動かしたくなかった。

この男が、美雪さんを売った。松尾さんと、大庭さんと、ひなたを、こんな目に合わせた。

塩崎は、参道の石畳に足を取られて、派手に転んだ。

群喰が、その背中に迫る。

――……。

透は、立ち上がっていた。

自分でも、いつ立ち上がったのかわからなかった。膝が、一歩ごとに笑っている。

塩崎の腰のベルトをつかみ、参道の脇の石畳の影へ、力任せに引きずり込んだ。山のような体は、一人でひきずるには重すぎた。それでも、ひきずった。

「――息、止めてください」

「、な、なんなお前、いつから――」

「止めろ」

塩崎の口を、手で塞いだ。

群喰は、石畳の向こうで、しばらく鼻先を揺らしていた。それから、また遠くで鳴った銃声の方へ、去っていった。

塩崎は、白い顔で、透を見上げていた。

「……なんで、おれを」

透は、塩崎の口から手を離した。

「……寝覚めが悪いだけです」

それが、その日の透の最後の記憶だった。

◇

霧の中から、迷彩服が駆けてきた。

朝倉さんは、庭の土の上に倒れている透を見つけて、一瞬だけ立ち止まった。

その周りに、松尾と、大庭さんと、ひなた。そして、なぜか塩崎。

「……班長」

松尾が、腫れた顔で、かすれた声を出した。

「この人、すごかったです。群れがみんな、この人の方を向いたんすよ。それでも、逃げんで、俺らのとこまで来てくれたんです」

朝倉さんは、何も言わなかった。

ただ、透のそばに膝をつき、その額に手を当てた。冷たかった。息は、ある。

「……小さな子のためには、冷静でいられんとやね。あなたは」

小さな声だった。

それを、透は聞いていなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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