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第20話 影法師

第ニ部最終話です。第三部からは、一日一話、朝七時公開予定です。

本作全体の部数については、あとがきにて。

目を覚ますと、天井の板の木目が見えた。

保健室のベッドだった。窓の外は、もう昼を回っているらしい。

体を起こそうとして、やめた。腕も脚も、他人のもののように重い。指を一本曲げるだけで、肩まで痛みが走る。

――半日、か。

公園でひなたと沈んだときは、一晩寝れば治った。三人で三分は、どうやら桁が違うらしい。

ベッドの横の丸椅子で、美雪さんが本を開いたまま居眠りをしていた。白衣の襟元が少しずれて、鎖骨のくぼみが見えている。

――……。

透は、首だけをほんの少し傾けた。角度があと五度あれば、と思った。首が、五度ぶん動かなかった。

「……起きてるなら、そう言って」

美雪さんが、目を閉じたまま言った。

「起きてません」

「首の角度でわかるの。医者だから」

美雪さんは、襟元を直しながら目を開け、透の手首を取って脈を数えた。

「……九十二。寝起きにしては、ずいぶん早いわね。……何かで、興奮してる?」

「いつもこのぐらいです」

「そういうことにしておくわ」

◇

透が眠っている間に、学校の中は、少し変わっていた。

松尾が、全部話したのだ。

群れのど真ん中で、誰かに抱き寄せられたこと。その誰かの息に合わせて息をしたら、自分の心臓が、すうっと静かになっていったこと。群喰の触手が、肩のすぐ横を通り過ぎていったこと。

「誰かなんて、言わんでもわかるでしょう。でも、あれはもう――」

松尾は、そこで言葉を選んだらしい。

「……影法師です。噂の、本物の」

大庭さんも、同じことを言った。「わしは最初から知っとったばい」と、なぜか自慢げだった。ひなたは、何を聞かれても「ないしょ」としか言わなかった。ないしょ、と言うたびに、少しだけ得意そうな顔をした。

由美さんが広めた噂は、もう噂ではなくなっていた。

夜の廊下に置かれる水。いつのまにか開いている鍵。チョークの印。群れの中から帰ってきた三人。

全部、影法師だ。

そしてそれが誰なのかを、今では避難所の誰もが知っていた。知っていて、本人の前では、誰も口にしなかった。

四階の教室の黒板の隅に、誰かが小さく、黒い人影の絵を描いていた。その下に、子どもの字で【かげぼうし ありがとう】と書いてある。

透は、その前を通るたびに、なんだかむずがゆくなった。

◇

塩崎は、理科室には戻らなかった。

戻れなかった、と言った方が正しい。鍵は、堤先生が預かっていた。

塩崎は、自分から堤先生のところへ行き、床に手をついたという。何を話したのかは、誰も知らない。ただ、それから理科室の物資は、堤先生と古賀さんの立ち会いのもとで、毎朝、全員に配られることになった。

廊下で、一度だけ、塩崎とすれ違った。

塩崎は、透の顔を見なかった。けれど、すれ違いざまに、小さく頭を下げた。山のような体が、ほんの少しだけ、縮んで見えた。

透は、立ち止まらなかった。

――理科室の物資が全員に回るなら、僕がこっそり運ぶ手間が減る。

それだけだった。たぶん。

◇

夕方、透は、校長室に呼ばれた。

呼びに来たのは、古賀さんだった。

「堤先生がね、ちょっと話したかって」

「……僕、何かしましたか」

「さあ。したっちゃないと?」

古賀さんは、目尻にしわを寄せて笑った。何もかも知っている笑い方だった。

校長室には、堤先生が一人で座っていた。背筋のまっすぐな、小柄な白髪の女性だ。あの夜、一晩でこの学校の避難の手順を組み立てた人。

「霧島くん。座ってください」

透は、座らなかった。いつでも逃げられるように、ドアの近くに立った。

堤先生は、それを咎(とが)めなかった。

「何も聞かんよ」

先生は言った。

「誰が水を運んだのか。誰が三人を連れて帰ってきたのか。……塩崎さんが理科室で毎晩カップ麺を食べとったのは、誰かにしっかり見られとったようやがな。何も聞かん。聞いたら、きみはたぶん、この学校からおらんようになるやろうから」

「……」

「ただ、これだけは言わせてもらう」

堤先生は、椅子から立ち上がった。そして、透に向かって、深く頭を下げた。

白髪の頭のてっぺんが、透の目の高さより、ずっと下にあった。

「ありがとう」

透は、固まった。

人に頭を下げられたことは、なかった。話しかけてびっくりさせて、こちらが頭を下げることなら、いつものことだが。

「……僕は、何もしてません」

「そう」

「本当に、何も」

「そう」

堤先生は、頭を下げたまま言った。

透は、ドアを開けて、廊下へ出た。走らなかった。走ると足音がする。だから、音を立てずに、できるだけ速く歩いた。

角を曲がったところで、壁にもたれていた朝倉さんと目が合った。

「……逃げたね」

「逃げてません。用事を思い出しただけです」

「何の用事」

「……屋上の、点検です」

朝倉さんは、透の背中の反射テープを、指で軽く叩いた。

「屋上から、隣のマンションのベランダが見えるのは知っとるよ」

「点検です」

「……テープ、もう一枚貼るけんね」

背中の反射テープが、三枚になった。

◇

その夜、透は屋上にいた。

点検ではない。本当に、ただ、そこにいたかった。

霧は薄く、雲の切れ間から、星が二つ三つ見えている。北の空、志賀島の方角で、何かが一度だけ羽ばたいたような気がしたが、目を凝らしても、もう何も見えなかった。

屋上のドアが、静かに開いた。

足音でわかった。朝倉さんだ。

朝倉さんは、透から二メートルほど離れたところで手すりにもたれ、同じ空を見上げた。小銃は持っていなかった。迷彩服の上着も脱いで、黒いTシャツ一枚だった。夜風に、ほどいた髪が揺れている。

透は、横目でその輪郭を見た。Tシャツの布地が、風で体に張りついている。

――……見てない。これは、景色だ。

「……見とるやろ」

「景色を見てます」

「嘘ばっかり。……今のあなた、めっちゃ気配が出とるよ」

朝倉さんは、それ以上は何も言わなかった。怒ってもいなかった。

しばらく、二人で黙っていた。

「――最初は、あなたのこと、ただの変態やと思っとった」

朝倉さんが、ぽつりと言った。

「今もでは?」

「そうかも」

朝倉さんは、小さく笑った。

「変態の覗き魔で、すぐ逃げる。人の目を見て話さん」

「……一つも否定できないのが、つらいです」

「でも、あの交差点で、あなたは逃げんかった」

透は、何も言わなかった。

「群れに見つかったって、松尾が言いよった。一回、見つかったって。それでも、逃げんで、三人を連れて帰ってきた。そのあとで、あの塩崎まで」

「……寝覚めが悪いだけです」

「それ、塩崎にも言うたらしいね」

「言いましたっけ」

「言うた」

朝倉さんは、手すりから体を離して、透の方を向いた。

「私はね、ずっと、あなたを監視するつもりでおった。何をするかわからん、得体の知れん人やけん。背中にテープ貼って」

「ひどい話です」

「でも、今日一日、あなたが寝とる間に、ずっと考えとった」

朝倉さんは、そこで一度、言葉を切った。

「……監視は、続ける。やっぱりあなたは変態やけん」

「えー……」

「でも、それとは別に」

朝倉さんは、少しだけ目をそらした。屋上の暗がりでも、その耳の先が赤いのがわかった。

「次は、一人で行かせん。何かあったら、先に私に言って。あなたの背中は、私が守るけん」

「……」

「監視しながら、守る」

「器用ですね」

「――わかった?」

透は、少しだけ迷ってから、うなずいた。

朝倉さんは、屋上のドアの方へ歩いていった。ドアノブに手をかけて、それから、振り向かずに言った。

「おやすみ。……霧島くん」

ドアが、静かに閉まった。

透は、しばらくそのまま立っていた。

心臓の鼓動が早くなっていた。八でも、いつもの六十でもない。数える気にもならなかった。

――名前で、呼ばれた。

どうでもいいことのはずだった。「あなた」が「霧島くん」に変わった。ただそれだけのことだ。

透は、手すりにもたれて、霧の向こうの街を見下ろした。

いくつかの窓に、小さな明かりがともっていた。まだ生きている人達が、確かにいる。

影法師の噂は、明日にはもっと広がっているだろう。

そしてその噂は、海の向こうにも、届こうとしていた。

第二部 完

本作は十部完結予定で、いまは、十部執筆中です。

八部、九部はかなり盛り上がるシーンになりました。公開はまだ先ですがお楽しみに。

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