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第21話 灰鷺

第三部開始

第三部からは、一日一話、朝七時公開です。

十一月三十日。霧は、日に日に冷たくなっていた。

美術準備室の床で目を覚ますと、胸の上に何かが乗っていた。

ひなただった。透の胸に耳を押し当てて、目を閉じている。

「……何してるんですか」

「お兄ちゃんの音、聞きよると」

「朝からやめてください」

「だって、聞いとったら安心するもん」

ひなたは、あの交差点から戻ってきて以来、透のそばを離れなかった。夜は由美さんの毛布で寝るが、朝になると必ずここにいる。

そこへ、扉が開いた。

朝倉さんだった。小銃を肩にかけたまま、床の上の二人を見下ろしている。

「……霧島くん」

「違います」

「まだ何も言っとらん」

「何を言われるかは、わかるんで」

ひなたが顔を上げて、無邪気に言った。

「お姉ちゃんも、お兄ちゃんの胸の音、聞く? すっごい静かとよ」

朝倉さんは、一瞬だけ固まった。それから、何も言わずに扉を閉めた。閉める直前、耳の先が赤かったのが見えた。

――いや、今のは僕のせいじゃない。

◇

避難所は、少しずつ元に戻り始めていた。

大庭さんは額に包帯を巻いたまま、古賀さんが箒の柄で作った新しい杖をついて、廊下をのしのしと歩いている。「前の杖より、よう手になじむ」と言って、古賀さんを照れさせていた。松尾の顔の腫れは、紫から黄色に変わった。

理科室の物資は、毎朝、堤(つつみ)先生と古賀さんの立ち会いで配られる。塩崎は、その列のいちばん後ろに黙って並んでいた。

昼過ぎ、朝倉さんは美術準備室で弾倉を広げ、一発ずつ数えていた。

「……十四」

天神の地下街と、香椎(かしい)宮の交差点。弾は、思ったよりずっと減っていた。

「補給は、来ないんですか」

「来ん。部隊と連絡が取れん。霧の中じゃ無線も携帯も通じんし、電気が来とらんけん、固定電話も使えん。私がここにおることも、たぶん誰も知らん」

朝倉さんは、弾倉を一つずつ、丁寧に胸のポーチへ戻していった。

◇

その人が現れたのは、夕方だった。

非常階段の下で見張りをしていた古賀さんが、妙に上ずった声で上へ呼びかけてきた。

「お、おーい! 誰か! ちょっと、通訳できる人おらんね!」

廊下に集まった住民の前に、古賀さんが連れてきたのは、背の高い女性だった。

短く切ったブロンドの髪が、寒さであちこちに跳ねている。泥だらけのダウンジャケットに、大きなリュック。頬は寒さで赤く、青い目は、疲れているのに妙に明るかった。

「すみませーん。取り残された留学生です」

流暢な日本語だった。いや、流暢どころではなかった。

「九大の寮におったっちゃけど、みんな逃げてしもうて。一人で二週間、隠れとったと。もう、ほんっとに死ぬかと思ったぁ」

廊下が、しんと静まった。

博多弁だった。それも、地元の人間と変わらない、完璧な。

「……あんた、どこの人ね」

古賀さんが、ようやく聞いた。

「アメリカ。ヴィクトリアっていいます。ヴィッキーでよかよ。小さいころは横須賀の基地のそばで育って、大学で福岡に来てから、寮のおばちゃんに博多弁ばたたき込まれたと」

ヴィッキーさんはそう言って、にかっと笑った。

それから、リュックを床に下ろした。中から出てきたのは、チョコレートの箱と、インスタントコーヒーの瓶と、使い捨てカイロの束だった。

「寮の売店から、持てるだけ持ってきたと。泊めてもらう代わりに、みんなで分けて」

子どもたちの歓声が、廊下に上がりかけたが、全員が、慌てて口を押さえた。

◇

半日で、ヴィッキーさんは避難所の人気者になった。

子どもたちにチョコレートを配り、大庭さんの包帯を巻き直し、由美さんと並んで炊き出しの鍋をかき混ぜた。古賀さんの頬に、挨拶だと言ってキスをした。古賀さんは、その場で三十秒ほど動かなくなった。

塩崎までが、彼女に話しかけられて耳を赤くしていた。

透は、廊下の隅からそれを見ていた。

「……人気ですね、あの人」

隣で、朝倉さんが腕を組んでいた。

「霧島くんも、ああいうのが好きなんやろ」

「ああいうのって」

「金髪で、背が高くて、胸が大きい」

「全部、見たまんまの特徴じゃないですか」

「否定はせんとね」

「ちなみに、その内二つは朝倉さんも同じです」

「……」

朝倉さんが、無言で透の脛を蹴った。

透は脛をさすりながら、少し考えた。

「……あの人、足音がしないんですよ」

朝倉さんの目が、すっと細くなった。

「床の軋むところを、全部避けて歩いてます。最初に来たときから。それと、廊下に入るたびに、非常口を目で確かめてる。三回とも」

「……留学生にしては、変やね」

「あと、右手の拳の骨のところが、硬くなってました。人を殴り慣れてる手です」

朝倉さんは、しばらく黙ってヴィッキーさんの背中を見ていた。

「霧島くんと同じで、足音がせん人、か」

「はい」

「……それ、覗きが趣味の人ってことやろ。一番信用できん人やん」

「……たしかに」

◇

ヴィッキーさんは、住民たちに一つだけ、しつこく聞いて回っていた。

「ねえ、影法師って、ほんとにおると?」

住民たちは、そのたびに笑ってごまかした。誰も、名前は言わなかった。ひなたが口を開きかけると、由美さんがそっとその口を塞いだ。

「ないしょ」

ひなたは、得意そうに言った。

◇

その夜、屋上の給水塔の陰で、ヴィッキーさんは小さな機械を耳に当てていた。

霧の中では、どんな無線も通じない。この機械を除いては。夜霧(よぎり)の乱れには、すり抜けられる周波数の隙間がある。しかも乱れは、霧の奥で脈打つ何かに合わせて、強くなったり弱くなったりする。機械はその弱まる一瞬を待って、声を細切れにして送る。どちらも、日本の自衛隊はまだ知らないことだった。

霧が、白い吐息を飲み込んでいく。彼女は、誰もいない屋上を一度だけ見回してから、英語で話し始めた。

「――グレイ・ヘロン……こちら、ローズ。……潜入、完了」

機械の向こうで、ノイズまじりの男の声が何か答えた。

彼女は、唇の端をわずかに上げた。

「……ええ。科学者は……ここに。それと……」

そこで、少しだけ言葉を切った。

「……この学校には……幽霊がいる。……みんな知ってるのに……誰も、正体を教えてくれない」

機械を切ると、ヴィッキーさん――ローズは、手すりにもたれて霧の街を見下ろした。

「……影法師、ね」

楽しそうな声だった。

お読みいただきありがとうございます。

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