第22話 白い息
第三部からは、一日一話、朝七時公開です。
十二月一日。この冬いちばんの冷え込みだった。
「女子会しよ」
言い出したのは、ヴィッキーさんだった。
四階の空き教室を仕切った、仮の保健室。ヴィッキーさんはどこからか大きな鍋を見つけてきて、雨水を沸かしていた。
「お湯で体拭くの、二週間ぶりやもん。葵ちゃんも、美雪さんも、一緒にやろ」
「……私は、よか」
「だーめ。葵ちゃん、見張り明けで髪ばさばさやん」
朝倉さんは断りきれずに、ヴィッキーさんに腕を引かれていった。美雪さんも、タオルを抱えてその後に続いた。
廊下の隅で、透はそれを見送った。
――安全確認が必要だ。
……というのは、もちろん建前だった。
◇
仮の保健室の窓の外には、幅三十センチほどの庇が張り出している。四階の、外側。下は霧の底だ。
透は、その庇の上に腹ばいになっていた。
風が冷たい。猛烈に冷たい。鉄の手すりに触れた指先から、熱が吸い取られていく。けれど、そんなことはどうでもよかった。
窓ガラスは、湯気でうっすらと曇っていた。カーテンの隙間から、ぼんやりと光が漏れている。中の声が、薄いガラス越しに聞こえてきた。
「葵ちゃん、腹筋割れとるやん。触ってよか?」
「触らんで」
「美雪さんは細いなあ。ちゃんと食べよる?」
「研究所の食堂が、美味しくなかったので……」
「それ、天神でも聞いた気がする」
朝倉さんの声だった。少しだけ、笑っていた。
カーテンの向こうで、影が動いた。ポニーテールをほどく仕草。肩から、何かを滑り落とす仕草。曇ったガラス越しの、輪郭だけの影。
それだけだった。それだけなのに。
心臓が、ばくばくと暴れ出した。
――待て。無だ。無になれ。
無理だった。指先は凍えているのに、胸の奥だけが燃えるように熱い。息が、勝手に荒くなる。吐くたびに、口元から白いものが溢れ出した。
冷えきった夜気の中で、それは窓の明かりに照らされて、ふわりと浮かび上がった。
庇の上に、誰もいないはずの場所に、白い息だけが。
◇
「――見ーつけた」
耳元で、声がした。
透の心臓が、口から飛び出しかけた。
振り向くと、すぐ隣の窓から、ヴィッキーさんが身を乗り出していた。Tシャツ一枚で、濡れた髪をタオルで包んでいる。いつの間に、隣の教室へ回ったのか。
「ここで何しよったと?」
「覗き……じゃなくて、見張りです」
「覗きって言っちゃっとるやん」
「……あなた、面白いね」
彼女は、窓枠を乗り越えて庇の上に出てきた。幅三十センチの庇の上に、二人。
「ちょ、狭いです」
「しーっ。中に聞こえるよ」
ヴィッキーさんは、透の体にぴったりと身を寄せた。落ちないためなのか、わざとなのか。湯上がりの体温が、Tシャツ越しに伝わってくる。柔らかい。そして、近い。
「誰もおらんとこから、白い息だけが出とったと。お化けかと思ったわ」
「……幻覚じゃないですか」
「あんたが、影法師くんやろ?」
「誰ですかそれ」
「ふーん」
ヴィッキーさんは、楽しそうに目を細めた。それから、透の胸に、手のひらをぺたりと当てた。
「じゃあ、今夜のことは二人の秘密ね。そのかわり……今度、あたしの着替えも見せてあげよっか」
「結構です」
即答だった。
ヴィッキーさんの手のひらの下で、透の心臓は、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かになっていた。
「……あれ?」
ヴィッキーさんが、首を傾げた。
「あたしじゃ、乱れんと?」
「いつも乱れてませんけど?」
「えー、傷つくー。こんなにくっついとるとに」
それから、彼女はふと、曇った窓ガラスの方を見た。中では、朝倉さんの影が、髪を拭いている。
ヴィッキーさんの口元が、ゆっくりと笑いの形になった。
「……ああ、そういうこと。あんなに白い息を吐いとったのは、葵ちゃんのせいか」
「違います」
「バレバレやん」
そのとき、すぐそばの窓が、がらりと開いた。
「ヴィッキー? どこ行ったと――」
朝倉さんが顔を出した。肩にタオルをかけ、濡れた髪をおろしている。
ヴィッキーさんは、何事もなかったように手を振った。
「夜風に当たっとったと。のぼせたけん」
「Tシャツ一枚で? 風邪ひくよ」
「葵ちゃん、優しいー」
朝倉さんは窓を閉めた。庇の上には、ヴィッキーさん一人しかいなかった。
◇
二十分後。
四階の廊下で、朝倉さんは、凍えて座り込んでいる透を見つけた。
「……霧島くん」
「はい」
「なんで、ふるえとうと」
「……冷え込みが厳しいんで」
「廊下の中で?」
「ちょっとだけ見張りに出たら、こうなりました」
朝倉さんは、しばらく黙って透を見下ろしていた。湯上がりの頬が、まだ少しだけ赤い。
それから、ぱしん、と透の頭をはたいた。冷えきった前髪が、ぱさりと揺れた。
「……今日は、これで許す」
「何もしてません」
朝倉さんは答えずに歩き去った。その背中から、石鹸の匂いがした。
廊下の向こうで、ヴィッキーさんが、口元を押さえて肩を震わせていた。
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