第23話 呼び笛
第三部からは、一日一話、朝七時公開です。
十二月二日。透は、名島の団地へ向かっていた。
天神から戻って以来、運ぶ先が増えていた。香椎東中学校のほかにも、団地や高層マンションの上の階に、身を寄せ合って暮らしている人たちがいる。手紙、薬、粉ミルク。透は、それを一つずつ届けて回っていた。
名島の団地は、十一階建てが三棟並んだ古い団地だ。九階から上に、四十人ほどが残っている。
「影法師さん、いつもすまんね」
九階の玄関で、薬を受け取ったおばあさんが手を合わせた。いつのまにか、ここでもそう呼ばれていた。噂を運んだのは、たぶん透自身だ。避難所の人たちが書く手紙には、決まって「影法師さんが届けてくれます」と書き添えてある。その手紙を配るたびに、名前も一緒に広がっていった。透は何も答えずに、次の棟へ向かった。
◇
異変に気づいたのは、日が傾きかけたころだった。
音が、した。
音、と言っていいのかもわからない。耳の奥が、かすかに圧される。低すぎて、ほとんど聞こえない。それでいて、胸の骨に直接響いてくるような、ぶうん、という唸り。
――なんだ、これ。
団地の前の通りで、群喰が足を止めていた。一体、二体、五体。それが一斉に、首を同じ方へ向けた。
団地の方へ。
いつもの群れの動きではなかった。物音を探して、鼻先を揺らしながら寄ってくるのとは違う。まるで糸で引かれたように、まっすぐに、団地の入り口へ向かって歩き出している。
唸りは、上から降ってきていた。群れが向かっている棟の、屋上のあたりから。
◇
群れは、団地の階段を上り始めていた。
一階。二階。いつもなら、群喰は物音のない上の階までは来ない。それが、あの唸りに引かれるように、迷いなく上っていく。
透は、群れのあとを追って階段を駆け上がった。踊り場ごとに、灰色の背中の横をすり抜けていく。群喰は、透には気づかない。そのまま屋上まで上る。
屋上の手すりに、黒い箱が括りつけられていた。弁当箱くらいの大きさの、スピーカーのようなもの。側面に、小さな漢字と数字が刷り込まれている。
――誰かが、呼んでる。
箱の配線を、小刀で切る。唸りが、ぷつりと止まった。
階段の途中で、群喰が足を止めた。触手が、行き先を見失ったように揺れる。
けれど、もう遅かった。先頭の数体は、八階を越えていた。真下で、誰かが悲鳴を上げた。
透は、屋上から階段を駆け下りた。
九階の廊下では、住民たちが一つの部屋に逃げ込もうとしていた。その最後尾で、さっきのおばあさんが、杖をついてよろけていた。
八階からの階段を、群喰の触手が這い上がってくる。
透は、おばあさんの体を抱え上げた。
「息、止めてください」
部屋の中へ滑り込み、扉を閉める。住民たちが息を殺す。透は扉に背中を押し当てて、自分の鼓動を沈めていった。
扉一枚向こうで、群喰が鼻先を揺らしていた。
やがて、それは、来た方へ戻っていった。
◇
二人、やられた。
八階に住んでいた夫婦だった。逃げ遅れたのだと、隣の部屋の男が言った。
透は、何も言えなかった。
もう少し早く、あの箱に気づいていれば。そんなことを考えても、どうにもならないのはわかっていた。
切り取った黒い箱を、ポケットに入れた。思ったよりも重かった。
◇
帰り道、透は博多港へ回った。あの箱を仕掛けた誰かは、どこから来たのか。霧の中を陸から来るのは難しい。だとしたら、海しかない。
岸壁に積まれたコンテナの陰を伝って、倉庫の裏まで近づく。霧の向こうに、ライトがいくつも灯っていた。
岸壁に、見慣れない船が一隻、横づけされていた。漁船でも、自衛隊の船でもない。灰色に塗られた、小さな貨物船だった。
人がいた。十人以上。黒い装備をそろえた男たち。聞こえてくるのは、中国語だった。
倉庫の前に、鉄の檻が置かれていた。中で、群喰が一体、触手を檻の格子に打ちつけている。
檻の前に、大柄な男が立っていた。
白髪まじりの短い髪。首が太く、肩が岩のように盛り上がっている。男は、檻の中の群喰を、値札でも眺めるような目で見ていた。
男の足もとの木箱に、名島の屋上の箱と同じ漢字と数字が刷り込まれていた。
コンテナ一つ挟んだ向こうで、男が口を開いた。中国語だった。
透の中国語は、大学の第二外国語の授業で止まっている。聞き取れたのは、切れ切れの単語だけだった。
「――……林……博士……」
「……見つけろ……上将が……」
男の周りで、何人かが笑った。
別の男が、何かを尋ねた。その答えの中に、聞き覚えのある地名が混じっていた。
「……名島……試し……群れは、ちゃんと来た……」
「……本番は……もっと、たくさん……」
透は、ポケットの中の黒い箱に触れた。
――あの団地は、試しだったのか。
◇
「……研究所の、機械です」
美術準備室で、美雪さんが、透の持ち帰った黒い箱を見つめていた。
「この型番、海の上の研究所で使っていたものです」
美雪さんは、透の話を最後まで聞いてから、箱の裏蓋を開けて、中の基板をのぞき込んだ。
「……状況からして、たぶん、巣核の共鳴に似せた音を出しています。虚喰は、群れの仲間がいる方へ引かれる。その音を、この基板で作っているんだと思います。研究所の録音を使って、作らせたんでしょう」
「呼び笛、みたいなもんですか」
「……そうですね。呼び笛」
美雪さんは、箱を膝の上に置いた。
「それと、霧島さんが港で見た、白髪まじりの大きな男。……たぶん、宋凱です。研究所の警備の責任者だった人。今は、回収隊にいるんでしょう」
朝倉さんが、窓際で腕を組んでいた。
「回収隊が、群れまで使うてくるとはね」
「狙ってるのは、回収隊だけじゃないかもしれませんよ」
透は、廊下の向こうに目をやった。子どもたちの笑い声がする。その真ん中に、ブロンドの髪が見えた。
朝倉さんは、何も言わなかった。ただ、胸のポーチの弾倉を、指で一度だけ確かめた。
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