第24話 地下の震え
第三部からは、一日一話、朝七時公開です。
十二月三日。透は、呉服町の雑居ビルの十階にいた。
地下鉄空港線の呉服町駅のすぐ上に建つ、十二階建てのビルだ。八階から上に、二十人ほどが隠れ住んでいる。天神から戻ってから、透はここにも薬と手紙を運ぶようになっていた。
今日は、一人ではなかった。
「……ここ、揺れるとね」
朝倉さんが、窓際の床に手を当てていた。
香椎宮の交差点の一件以来、朝倉さんは透が遠くへ運ぶときには、黙ってついてくるようになった。監視なのか、別の理由なのかは、聞いていない。聞くと、たぶん監視だと言われる。
「夜中にね、床がずうっと震えるとよ」
住民の一人、このビルで管理人をしていたという、小柄なおばあさんが言った。
「地震やなか。下から、何かが這いずるごたる揺れ。それが毎晩。……それとね、表の通りを渡った人が、おらんようになると」
「群れに食われたんじゃなくて、ですか」
「群れはおらんかった。見とった人がおるとよ。道の真ん中で、急に足元が盛り上がって、アスファルトが割れて、そのまま下に引きずり込まれたって」
おばあさんは、窓の外の交差点を指さした。
大通りの真ん中に、いくつか、黒い穴があいていた。マンホールではない。アスファルトが内側から破られたような、ぎざぎざの穴だった。
「昔から、言うやろ。地の下には、長虫がおるって」
「ながむし?」
「蛇のことたい。あたしのばあちゃんは、地面の下のでっかい蛇を、そう呼びよった」
◇
日が落ちてから、透と朝倉さんは、四階の空き部屋に下りて、窓から通りを見張った。
霧に沈んだ交差点は、静まり返っていた。群れの影も無い。
暗い部屋に、二人きりだった。
朝倉さんは窓際に片膝をつき、通りから目を離さない。透の目の前で、ポニーテールの先が、ときどき小さく揺れていた。
――触ってみたい。
ほんの少し、指先で。どんな手ざわりなのか、確かめるだけ。
心臓が、勝手に速くなっていく。透の右手が、ゆっくりと持ち上がった。
「……霧島くん」
「はい!」
「ちゃんと、通りを見とって」
振り向きもしないのに、なぜわかるのだろう。透は、伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
一時間ほどして、野良犬が一匹、通りに現れた。痩せた茶色の犬だった。鼻を地面に近づけながら、交差点を斜めに横切っていく。
交差点の真ん中で、犬が足を止めた。
地面が、盛り上がった。
アスファルトに亀裂が走り、そこから何かが突き出した。灰色の、ぬめった、一本の長い胴。太さは、電柱ほどもあった。それが一瞬で犬に巻きつき、そのまま穴の中へ引き込んだ。
鳴き声すら、聞こえなかった。
地面の亀裂が、ゆっくりと閉じていく。足元の床が、低く、長く震えた。地下を何かが遠ざかっていく揺れだった。
「……あれが」
朝倉さんが、息を呑んだ。
透は、窓に張りついたまま、今の光景を何度も頭の中で巻き戻していた。
犬は、吠えていなかった。息も荒くしていなかった。ただ、歩いていただけだ。
「……足音、ですね」
「足音?」
「あいつ、音とか気配じゃなくて、地面の揺れだけ拾ってるんだと思います。犬が交差点の真ん中で立ち止まる前、地面を引っかいてました。その直後に来た」
◇
放っておくわけにはいかなかった。
このビルの人たちは、よくあの交差点を渡って、食料の調達に行っている。今日の犬は、明日の誰かかもしれない。
「あいつがどこから来るのか、確かめてきます。向こう側の、地下鉄の入口」
「私も行く。あれが出てきたら、撃てるのは私だけやけん」
「僕は、たぶん大丈夫です」
透は言った。足の裏で地面を叩かずに歩くのは、子どものころから祖父に仕込まれている。
「でも、朝倉さんの軍靴は、ちょっと」
朝倉さんは、自分のブーツを見下ろした。それから、何かを察したように、透を見た。
「……まさか」
「背負います」
「嫌」
「じゃあ、裸足で渡りますか。この寒さで」
朝倉さんは、長いこと黙っていた。
◇
交差点の手前で、透はしゃがんだ。
朝倉さんが、その背中に体を預ける。小銃を斜めに背負ったまま、両腕が透の首に回された。
思っていたより軽かった。そして、思っていたより柔らかかった。迷彩服の生地越しに、背中にぴったりと押しつけられる感触があった。
心臓が、ばくばくと暴れ出した。
――いや、待て。今は関係ない。
透は、一歩目を踏み出した。足の裏を、地面に置くように。かかとからではなく、つま先でもなく、足の裏全体で、そっと。
二歩目。三歩目。
耳元で、朝倉さんが小さく言った。
「変態……心臓、うるさか」
「こいつには、関係ないんで」
「私には関係ある」
「背負われてる側が言うことじゃないです」
交差点の真ん中を過ぎた。黒い穴のすぐ横を、透は音もなく通り過ぎていく。足の下の地面は、静まり返っていた。
背中の朝倉さんが、透の首に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……落としたら、撃つけんね」
「落としたら、僕もあいつに食べられるんで」
透の心臓は、交差点を渡っている間じゅう、一度も静かにならなかった。一歩進むたびに、朝倉さんのポニーテールの先が、透の腕をさらりとかすめていく。さっき触りそうになった、あの髪だった。そのたびに、心臓がまた一段跳ね上がった。長虫には、本当に関係のないことで、よかったと思った。
渡り終えた歩道で、透は朝倉さんを下ろした。朝倉さんはすぐに背中を向けた。耳まで赤かった。
地下鉄の入口の階段は、途中から黒い水に沈んでいた。壁のタイルが、電柱ほどの太さの帯になって削り取られ、手すりはねじ曲がっている。階段には、ぬめった灰色の筋が、水の中へと続いていた。
あれは、ここを通って出入りしている。
帰りは、交差点を避けて、遠回りの路地を選んだ。
◇
「……地面の揺れだけに反応する個体」
美術準備室で話を聞いた美雪さんは、しばらく考え込んでいた。
「研究所の記録にはありません。たぶん、地下のトンネルに適応して、耳や触覚より、体全体で振動を拾うように育ったんだと思います」
「トンネルって、地下鉄の」
「おそらく。空港線のトンネルは、博多から天神、その先までずっとつながっています。あの中を、行ったり来たりしている」
美雪さんは、地図の上で、地下鉄の線を指でなぞった。
「……放っておけば、また誰かが引き込まれますね」
透は、その線を見て言った。
「……明日、下りてみます」
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