第25話 長虫
第三部からは、一日一話、朝七時公開です。
十二月四日。祇園駅の階段を、透は一人で下りていった。
地下鉄の駅は、真っ暗だった。改札の機械が、埃をかぶって並んでいる。ホームの端から線路に降りると、トンネルの奥から、湿った冷たい風が吹いてきた。
透は、懐中電灯を点けなかった。闇眼で十分だった。音と空気の揺れだけで、トンネルの形はつかめる。
線路の床には、厚く埃が積もっていた。透は、その上を音もなく歩いた。コンクリートの床なら、足音も揺れも消せる。
問題は、その先だった。
◇
祇園と博多の間で、トンネルが少し低くなる場所がある。そこに、水が溜まっていた。
地下水が染み出しているのだろう。くるぶしほどの深さの黒い水が、数十メートルにわたって線路の床を覆っている。水の上に出ているのは、二本のレールだけだった。
――水の中を歩けば、波が立つ。
波は、壁に当たって揺れになる。あいつに届くかもしれない。
透は、レールの上に足を乗せた。
細い鉄の上を、平均台のように歩いていく。体重を、足の裏全体にゆっくりと移す。
一歩目は、大丈夫だった。
二歩目で、鉄が鳴った。
きん、と。ほとんど聞こえないほどの、かすかな音。けれど透の足の裏には、はっきりとわかった。鉄が震えて、その震えが、レールを伝ってトンネルの奥へ走っていく。
――まずい。
コンクリートなら、体重は床に吸われて消える。けれど、鉄は違う。どれだけそっと乗っても、人一人の重さで、鉄はわずかに歪んで、鳴る。
透は、レールの上で動けなくなった。
進めば、鳴る。戻っても、鳴る。
トンネルの奥で、何かが動いた。
◇
闇の向こうから、低い震動が近づいてくる。
壁が、天井が、かすかに鳴っている。水面に、細かい波紋が広がった。
透の闇眼に、それの形が浮かび上がってきた。
トンネルの床を、何かが這ってくる。浅い水を、左右に押し分けながら。その後ろに続く体が、どこまでも、どこまでも続いていた。太さは、電柱ほど。表面は、灰色の、ぬめった鱗のようなもので覆われている。
長虫。
おばあさんのばあちゃんは、正しかった。
それが、レールの震えを辿って、まっすぐこちらへ向かってくる。
透は、息を止めた。心臓を沈めた。二十。十。八。
けれど、そんなことは関係なかった。こいつは、心臓の音も、息も聞いていない。聞いているのは、足の下の鉄だけだ。
――動けない。
動けば鳴る。動かなければ、そのうち足が震えて、やっぱり鳴る。
長虫の頭が、十メートル先で、水を跳ね上げて、持ち上がった。
目も口もない、のっぺりとした先端。その先端が、ぱっくりと四つに割れた。中に、白い棘のようなものが、何重にも並んでいた。
◇
かあん、と。
トンネルの反対側で、甲高い音が響いた。
鉄を、何か硬いもので叩いた音だった。二度、三度。透の後ろ、祇園駅の方から。
長虫の頭が、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと、向きを変えた。透のいるレールではなく、隣の線路の、音のした方へ。
長い体が、透の目の前を流れていく。手を伸ばせば届く距離だった。ぬめった表面が、透の足元すれすれを、いつまでも、いつまでも通り過ぎていく。
最後の尾が通り過ぎたとき、誰かが透の襟首をつかんだ。
「――こっち」
レールから引きずり下ろされ、トンネルの壁の窪みに押し込まれる。保線作業員が電車をやり過ごすための、狭い待避所だった。
人ひとりがやっと入れる窪みに、二人。
透の胸に、柔らかいものが押しつけられていた。
「……ヴィッキーさん」
「しーっ」
ヴィッキーさんは、透に体をぴったりと寄せたまま、窪みの外を窺っていた。片手に、長い金属の工具を握っている。さっきレールを叩いたのは、これだろう。
「……なんで、ここに」
「あんたの後ろ、ずっとつけとったとよ」
彼女は、トンネルの床を顎で示した。
「あんたは見えん。でも、埃の上の足跡は見える。ここ、誰も歩いとらんけん、きれいに残っとった」
――そういうことか。
透は、自分の足跡のことなど、考えたこともなかった。霧の街では、足跡はすぐに湿って消える。けれど、何週間も誰も通っていない地下のトンネルでは。
「それより」
ヴィッキーさんが、透の胸に手のひらを当てた。
「あ、ちょっとだけ速くなった」
「……気のせいです」
「でも、葵ちゃんのときほどやないね。やっぱりあたしじゃだめか。傷つくわあ」
彼女は、少しも傷ついていない顔で笑った。
◇
長虫が遠ざかると、ヴィッキーさんは窪みから出て、線路の脇にしゃがみ込んだ。
床に、灰色のぬめりが残っていた。長虫が壁に体をこすった跡だ。一か所だけ、鱗がはがれて、黒っぽい液が溜まっている。
ヴィッキーさんは、背中のリュックから小さなケースを出した。中には、注射器と、細長いガラスの容器がいくつも並んでいた。
慣れた手つきで、その液を吸い取っていく。
ケースの蓋の裏に、小さな紋章が刻まれていた。翼を広げた鷲の紋章。
透は、それを見ていた。
ヴィッキーさんは、透の視線に気づいて、ケースの蓋をぱたんと閉じた。それから、唇に人差し指を当てた。
「内緒ね」
「……留学生の、卒業研究ですか」
「そうそう。生物学専攻やけん」
彼女は笑って立ち上がり、祇園駅の方へ、ほとんど足音を立てずに歩いていった。
「影法師くんも、早よ帰りいよ。あいつ、まだこの辺うろうろしとるけん」
闇の中に、ブロンドの髪だけが、ぼんやりと遠ざかっていった。
透は、しばらくその場に立っていた。
――助けられた。
それは、間違いなかった。けれど、どうして助けたのか。それが、わからなかった。
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