↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/46

第8話 遺品

十一月十七日、午前。

香椎東中学校の四階、廊下の突き当たりの美術準備室。透は、絵の具の匂いがする狭い部屋の隅で、壁にもたれて座っていた。

ここは、誰にも割り当てられていない部屋だった。狭すぎて、毛布を敷く場所もないからだ。透には、ちょうどよかった。ここなら、誰にも見られない。いや、どこにいてもそうなのだが。

一晩中、操車場で線路を叩いていた。体はくたくただった。それでも、眠れなかった。

膝の上に、一本の巻物がある。

昨日の昼間、アパートに寄って、桐の箱から取ってきたものだ。福岡に来るとき、母に無理やり押しつけられた。「じいちゃんのもんや。持っていき」。小刀を持ち出した朝も、これだけは箱に戻したままだった。

ひなたを抱いて隠れた、あの三十秒。

あれが何だったのか。答えがあるとしたら、この中しかなかった。

透は、紐をほどいた。

◇

和紙は黄ばみ、縁が虫に食われていた。墨の匂いと、古い箪笥(たんす)の匂いが混じり合う。

冒頭に、太い筆で一行。

【影は己のためにあらず】

祖父の口癖だった。「影は、自分のために使うもんやない」。いつもそう言いながら、祖父は透に、自分のためにしか使えないような遊びばかり教えていた。かくれんぼ。我慢比べ。足音を立てずに山道を歩くこと。郵便配達員だった祖父は、一度も犬に吠えられたことがないのが自慢だった。

そのあとには、細かい崩し字がびっしりと続いている。半分も読めない。それでも、拾える言葉があった。息殺し(いきごろし)。鼓沈め。気配逸らし(けはいそらし)。祖父が遊びの名前として使っていた言葉が、そこには技の名前として並んでいた。

巻物を、さらに広げる。

そこで、透の手が止まった。

墨で描かれた、絵があった。

四つ足の獣。異様に長い首。その頭には、目がない。目のあるべき場所はつるりと塗りつぶされ、裂けた口の周りに、細い線が何本も描き込まれている。

その絵の横に、字が添えられていた。

【目なきもの】

その下の文を、透は一文字ずつ、指でなぞりながら読んだ。

【目なきもの、霧と共に来たる。息、鼓、熱を聴きて人を喰らふ。之に気づかれずして近づく術、即ち隠形(おんぎょう)なり】

しばらく、何も考えられなかった。

――じいちゃん。

これは、何百年前の巻物なんだ。

この絵の獣を、透はこの三日間で、何十体も見た。そのうちの何体かは、自分の手で首を落とした。

息を殺す。心臓の音を沈める。体の熱を内側に引っ込める。祖父が「遊び」と呼んで、透に叩き込んだものの全部が、この獣から身を隠すためのものだった。

覗きのための技じゃなかった。

――いや、それはそうだろうけどさ。

巻物の最後の数枚は、まったく読めなかった。文字なのか、記号なのかもわからないものが、律儀な列を作って並んでいる。その冒頭にだけ、見覚えのある三文字が書かれていた。

【影縫ひ(かげぬい)】

小さい頃、祖父が指でなぞって「お前にはまだ早い」と笑った、あの三文字だった。

透は、その三文字を、しばらく黙って見つめていた。

◇

いつの間にか、うとうとしていたらしい。

夢を見た。

伊賀の山の、祖母の家の縁側。幼い透は、母の膝の前に座らされている。母は、まだ若かった。

「ええか、透。よう見とき」

母が、縁側の板を、トン、トン、とつま先で二回鳴らす。それから、とん、とかかとで一回。

「つま先、二つ。かかと、一つ。これはな、「ここにおるよ」っちゅう合図や。声を出さんでも、家のもんには伝わる。霧島の子はな、みんな覚えるんよ」

幼い透は、不思議そうに首をかしげた。

「みんなって?」

母は、少しだけ答えに詰まったように見えた。それから、いつものように笑って、透の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「……みんなや。ほら、やってみ。つま先、二つ」

トン、トン。とん。

幼い透の小さな足が、縁側を鳴らす。母が「上手やなあ」と笑う。その後ろの仏間で、線香の煙がゆらゆらと揺れていた。

◇

目を覚ますと、美術準備室の窓の外は、まだ明るかった。

透は、無意識に床を鳴らしていた自分のつま先に気づいて、動きを止めた。

トン、トン。とん。

――ここにおるよ。

この合図を、母以外の誰かに使ったことは、一度もない。使う相手がいなかった。

透は巻物を丁寧に巻き直し、紐を結んだ。それから、胸ポケットの上から、そこに入っているものを触った。ひなたの飴の包み紙。ランドセルの男の子のキラキラしたカード。

影は、己のためにあらず。

――なんだよ、それ。

そんな大層なものを、自分が背負えるとは思わない。そもそも、人助けをしようなんて思っていない。いままでは成り行きで、そうなっていただけだ。

それと、覗きは、やめない。

透は、大きく伸びをした。

そのとき、廊下の向こうが、少しだけざわついた。

息を殺して暮らしているはずの人たちが、声を潜めて何かを囁き合っている。

美術準備室の扉が開き、古賀さんが顔を出した。そして、部屋の中を一通り見回してから、ようやく透を見つけた。

「あ、おった。……ちょうどよか。ちょっと廊下に出てみらんね」

「何かあったんですか」

古賀さんは、少しだけ緩んだ顔で言った。

「明け方に、自衛隊さんが四人来たろう。ひと眠りして、今、廊下でみんなに挨拶しよるとよ。……それがな、班長さんが、えらいべっぴんさんでなあ」

透は、ゆっくりと立ち上がった。

廊下の向こう、非常階段の入口で、泥だらけの迷彩服の背中が、小さな子どもの前にしゃがみ込んでいるのが見えた。

黒いポニーテールが、その背中で揺れていた。

お読みいただきありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。