第8話 遺品
十一月十七日、午前。
香椎東中学校の四階、廊下の突き当たりの美術準備室。透は、絵の具の匂いがする狭い部屋の隅で、壁にもたれて座っていた。
ここは、誰にも割り当てられていない部屋だった。狭すぎて、毛布を敷く場所もないからだ。透には、ちょうどよかった。ここなら、誰にも見られない。いや、どこにいてもそうなのだが。
一晩中、操車場で線路を叩いていた。体はくたくただった。それでも、眠れなかった。
膝の上に、一本の巻物がある。
昨日の昼間、アパートに寄って、桐の箱から取ってきたものだ。福岡に来るとき、母に無理やり押しつけられた。「じいちゃんのもんや。持っていき」。小刀を持ち出した朝も、これだけは箱に戻したままだった。
ひなたを抱いて隠れた、あの三十秒。
あれが何だったのか。答えがあるとしたら、この中しかなかった。
透は、紐をほどいた。
◇
和紙は黄ばみ、縁が虫に食われていた。墨の匂いと、古い箪笥の匂いが混じり合う。
冒頭に、太い筆で一行。
【影は己のためにあらず】
祖父の口癖だった。「影は、自分のために使うもんやない」。いつもそう言いながら、祖父は透に、自分のためにしか使えないような遊びばかり教えていた。かくれんぼ。我慢比べ。足音を立てずに山道を歩くこと。郵便配達員だった祖父は、一度も犬に吠えられたことがないのが自慢だった。
そのあとには、細かい崩し字がびっしりと続いている。半分も読めない。それでも、拾える言葉があった。息殺し。鼓沈め。気配逸らし。祖父が遊びの名前として使っていた言葉が、そこには技の名前として並んでいた。
巻物を、さらに広げる。
そこで、透の手が止まった。
墨で描かれた、絵があった。
四つ足の獣。異様に長い首。その頭には、目がない。目のあるべき場所はつるりと塗りつぶされ、裂けた口の周りに、細い線が何本も描き込まれている。
その絵の横に、字が添えられていた。
【目なきもの】
その下の文を、透は一文字ずつ、指でなぞりながら読んだ。
【目なきもの、霧と共に来たる。息、鼓、熱を聴きて人を喰らふ。之に気づかれずして近づく術、即ち隠形なり】
しばらく、何も考えられなかった。
――じいちゃん。
これは、何百年前の巻物なんだ。
この絵の獣を、透はこの三日間で、何十体も見た。そのうちの何体かは、自分の手で首を落とした。
息を殺す。心臓の音を沈める。体の熱を内側に引っ込める。祖父が「遊び」と呼んで、透に叩き込んだものの全部が、この獣から身を隠すためのものだった。
覗きのための技じゃなかった。
――いや、それはそうだろうけどさ。
巻物の最後の数枚は、まったく読めなかった。文字なのか、記号なのかもわからないものが、律儀な列を作って並んでいる。その冒頭にだけ、見覚えのある三文字が書かれていた。
【影縫ひ】
小さい頃、祖父が指でなぞって「お前にはまだ早い」と笑った、あの三文字だった。
透は、その三文字を、しばらく黙って見つめていた。
◇
いつの間にか、うとうとしていたらしい。
夢を見た。
伊賀の山の、祖母の家の縁側。幼い透は、母の膝の前に座らされている。母は、まだ若かった。
「ええか、透。よう見とき」
母が、縁側の板を、トン、トン、とつま先で二回鳴らす。それから、とん、とかかとで一回。
「つま先、二つ。かかと、一つ。これはな、「ここにおるよ」っちゅう合図や。声を出さんでも、家のもんには伝わる。霧島の子はな、みんな覚えるんよ」
幼い透は、不思議そうに首をかしげた。
「みんなって?」
母は、少しだけ答えに詰まったように見えた。それから、いつものように笑って、透の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「……みんなや。ほら、やってみ。つま先、二つ」
トン、トン。とん。
幼い透の小さな足が、縁側を鳴らす。母が「上手やなあ」と笑う。その後ろの仏間で、線香の煙がゆらゆらと揺れていた。
◇
目を覚ますと、美術準備室の窓の外は、まだ明るかった。
透は、無意識に床を鳴らしていた自分のつま先に気づいて、動きを止めた。
トン、トン。とん。
――ここにおるよ。
この合図を、母以外の誰かに使ったことは、一度もない。使う相手がいなかった。
透は巻物を丁寧に巻き直し、紐を結んだ。それから、胸ポケットの上から、そこに入っているものを触った。ひなたの飴の包み紙。ランドセルの男の子のキラキラしたカード。
影は、己のためにあらず。
――なんだよ、それ。
そんな大層なものを、自分が背負えるとは思わない。そもそも、人助けをしようなんて思っていない。いままでは成り行きで、そうなっていただけだ。
それと、覗きは、やめない。
透は、大きく伸びをした。
そのとき、廊下の向こうが、少しだけざわついた。
息を殺して暮らしているはずの人たちが、声を潜めて何かを囁き合っている。
美術準備室の扉が開き、古賀さんが顔を出した。そして、部屋の中を一通り見回してから、ようやく透を見つけた。
「あ、おった。……ちょうどよか。ちょっと廊下に出てみらんね」
「何かあったんですか」
古賀さんは、少しだけ緩んだ顔で言った。
「明け方に、自衛隊さんが四人来たろう。ひと眠りして、今、廊下でみんなに挨拶しよるとよ。……それがな、班長さんが、えらいべっぴんさんでなあ」
透は、ゆっくりと立ち上がった。
廊下の向こう、非常階段の入口で、泥だらけの迷彩服の背中が、小さな子どもの前にしゃがみ込んでいるのが見えた。
黒いポニーテールが、その背中で揺れていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。




