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第7話 羊飼い

十一月十六日。霧に沈んで三日目の夕方。

透は、空き家になったマンションの三階のベランダから、向かいの棟の窓を覗いていた。

避難所の物資は、一日ごとに減っている。塩崎が理科室に押さえた分は、子どもたちにはほとんど回ってこない。だから透は、昼間は霧の中を歩き回り、空いた店や家から粉ミルクや缶詰めを拾っては、子どものいる家族の毛布の下にそっと入れていた。

ついでに、覗きもしていた。

こんな状況でも、人の暮らしは続いている。上の階の窓の向こうで、老夫婦が一つの缶詰めを分け合っている。若い女性が、写真立てに向かって何かを呟いている。中学生くらいの兄弟が、音を立てずにトランプをしている。

――みんな、生きてるな。

それを確かめるのが、ここ数日の透の日課になっていた。覗きというより、点呼に近い。自分でも、そう思う。

……若い女性の部屋の窓だけ、点呼の時間が少し長いのは、また別の話だ。

夕方、物資を探して、線路の向こうの香椎の操車場まで足を延ばした。

そこで、透は足を止めた。霧の奥から、爪で鉄板を引っかく音が聞こえてくる。

音をたどって近づくと、大きな倉庫の周りを、群れが取り囲んでいた。

十五体。いや、もっといる。倉庫の壁に鼻先を押しつけ、爪で鉄板を引っかいている。入れないのに、離れようともしない。

中に、誰かがいるのだ。

◇

透は倉庫の裏手に回った。

群れの間を縫うように、息を殺して進む。一体の怪物の尻尾が、足をかすめていく。倉庫の壁の高いところに、換気用の小さな窓があった。空調の室外機を足がかりにして、そこへ体を引き上げる。

曇ったガラス越しに、中を覗いた。

自衛隊員が、四人。

荷台やパレットを積み上げたバリケードの内側で、身を寄せ合っている。一人は、額に濡れたタオルを乗せて横になっていた。熱があるのだろう。若い。二十歳そこそこだ。

その若い隊員の元に、一人の隊員が膝をついていた。

水筒の蓋を開け、若い隊員の口元へ少しずつ水を含ませている。自分は飲まずに。その水筒の中身がもう底をついていることは、傾ける角度でわかった。

ヘルメットを脱いだその頭から、長い黒髪がポニーテールになって背中へ流れていた。

透は、息を止めたまま、瞬きをした。

――あのプリンの人だ。

間違いなかった。切れ長の目。すっと通った鼻筋。無表情なのに、何かを必死に強がっている口元。三日分の汚れと疲労が顔を覆っていても、とても美しかった。

生きていた。

「……松尾。もう少しだけ、飲んで」

声が、かすかにガラスを震わせる。

「班長の分、なくなるっすよ……」

「私は、さっき飲んだ」

嘘だ。透は、もう二時間、この窓から彼女を見ていた。その間、彼女は一口も水を飲んでいない。

――いや、二時間は見過ぎだろ。

自分で自分に突っ込んだ。けれど、目が離せなかったのだ。部下に水をやり、毛布をかけ直し、小銃を拭き、また部下の額に手を当てる。その繰り返しを、ただ、ずっと見ていた。

覗きの対象として満点だと、あの夜は思った。

その採点は、今も変わらない。ただ、点数の理由が、少しだけ変わった気がした。

◇

倉庫の周りに、二十一体。

正面からは、どうやっても無理だ。小刀一本で斬れる数じゃない。自衛隊員が中から飛び出せば、その瞬間に囲まれる。

透は、操車場を見回した。

何本もの線路が、霧の奥へ伸びている。

――鉄は、よく鳴る。

透は、倉庫から少し離れた線路の上にしゃがみ込んだ。拾った拳ほどの石で、レールを一度、強く叩く。

かぁん、と、澄んだ音が、レールを伝って霧の向こうへ走っていく。

倉庫の周りの群れが、一斉に首をもたげた。

もう一度。もう一度。

五体、六体と、線路を伝ってこちらへ歩き出してくる。透はすぐにその場を離れ、別の線路へ、少し先へ移る。そこでまた、叩く。

群れが、またそちらへ引かれていく。

――羊飼いの犬みたいだな。

自分の姿が、少し可笑しかった。けれど、笑っている余裕はなかった。群れは一度には動かない。半分を引き離しても、もう半分は倉庫の周りに残る。そして音が止むと、引き離した半分も、少しずつ戻っていく。

一度には無理だ。

なら、一人ずつ。

◇

深夜一時。

倉庫の北側の通用口の下の隙間から、一枚の紙が、音もなく滑り込んだ。

コンビニのレシートの裏だ。ボールペンの字は、小さく、丁寧だった。

【外の群れは、線路を叩く音を追います。 線路が三回鳴ったら、北の通用口から一人ずつ出てください。 壁の白い矢印をたどれば、安全な建物に着きます。 息は、細く。走らず、音を立てずに。】

窓の外から、透はそれを拾い上げる彼女を見ていた。

彼女は紙を一度読み、もう一度読んだ。それから、通用口の扉を、その向こうを、微かに光るほど鋭い目で見つめた。

「……誰?」

答えは、返さない。

部下の一人が、じりじりと彼女に近寄った。

「班長、罠かもしれませんよ」

「罠を仕掛けるなら、もうちょっと上手にやるやろ」

彼女は、紙をそっと胸ポケットにしまった。

「それに。……罠でも、このままここにおったら、松尾がもたん」

そう言って、彼女は乱れたポニーテールをほどき、高い位置できつく結び直した。

その仕草に、透は、なぜか見覚えがあった。

あの夜のコンビニでも、彼女はそうしていた。霧の中へ走り出す直前に。

――決めるときの、癖なんだ。

透は小さく頷いて、窓から滑り降りた。

◇

かぁん。かぁん。かぁん。

少し離れた線路が鳴る。群れの半分がそちらへ動く。その隙に、北の通用口が細く開き、最初の二人が滑り出てくる。

熱のある若い隊員を、もう一人が肩を貸して支えていた。二人で一組。いい判断だ。

壁には、透が夕方のうちにチョークで書いておいた、小さな白い矢印がある。二人はそれをたどり、倉庫の裏手から線路を越え、霧の向こうの住宅街へ消えていく。

その背中の三メートル後ろを、透は音もなくついていった。

途中、一体の怪物が、二人の方へ首を向けかけた。二人はそれに気づいていない。

透は、その一体の背後に滑り込んだ。

小刀が、音もなく首筋を押し切る。崩れる体を、そっと地面に寝かせる。

二人は、一度も振り返らなかった。

線路を鳴らし、群れを動かし、送り出し、その背中を避難所まで守る。そしてまた、操車場へ引き返す。群れの隙を待つ時間の方が、歩く時間よりずっと長かった。

三人目を終えたときには、空が白み始めていた。

◇

最後は、彼女だった。

部下を全員送り出すまで、自分は動かない。そういう人だろうと、透は思っていた。その通りだった。

彼女が、背嚢(はいのう)を背負い直している。小銃のスリングを肩にかけ、通用口の前で合図を待っている。背嚢は、通用口のすぐ内側の床に、一瞬だけ置かれた。彼女がブーツの紐を締め直す、その十秒だけ。

透は、その十秒を使った。

通用口の隙間から手を差し入れ、背嚢の外ポケットに、一つだけ、それを押し込む。

コンビニの冷蔵ケースの奥に隠しておいた、カスタードプリン。

残った二つのうちの一つ。

――残りは、また今度。

自分でも、なぜ全部渡さないのかわからなかった。

かぁん。かぁん。かぁん。

彼女は背嚢を背負い、通用口を滑り出た。

そして、一歩目を踏み出す前に、ふと立ち止まって、霧の中を振り返った。

透は、彼女から二メートルのところに立っていた。

彼女の視線が、透の顔のあたりを、ただ通り過ぎていく。

「……ありがとう」

誰もいない空間に向かって、彼女は小さくそう言った。それから少しだけ眉をひそめ、自分で自分に呆れたように小さく首を振って、白い矢印をたどって霧の中へ消えていった。

透は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

息を止めたままなのに、心臓の鼓動が少しだけ早くなった。

お読みいただきありがとうございます。

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