第6話 ひなた
ひなたは、軽かった。
胸の前で抱きかかえると、小さな頭が透の肩にことんと乗った。眠ったままだ。由美が自分のマフラーで、ひなたの体を透の胸にくくりつけてくれた。
「……お願いします」
由美は、それだけを言った。二度は言わなかった。
透は頷き、霧の中へ出た。
ひなたの心臓が、小さく、速く打っている。大庭さんのように息を止めることは、この子にはできない。だから、さっきよりもずっと遠回りの道を選んだ。群れの通り道から、十五メートル以上。庭と庭をつなぎ、動かない車の列の影を抜ける。
――起きるなよ。
心の中で、何度もそう祈った。
◇
六百メートル地点。小さな公園の植え込みの陰で、透は一度足を止めた。
公園の向こうの通りを、群れが横切っていく。距離は十五メートルほど。気配が届く距離ではない。大丈夫だ。このまま待てば、通り過ぎる。
そのとき、胸の中でひなたが身じろぎした。
「……ん……お母さん?」
寝ぼけた声。透は、息だけの声で囁いた。
「ひなたちゃん。お兄ちゃんです。お母さんは後から来ます。今は、静かに――」
ひなたが、顔を上げた。
その目に、公園の向こうの灰色の影が映った。
小さな体が、びくりと強ばった。心臓が、跳ね上がる。一分に百、百二十。透の胸に直接、その音が響いてくる。
「――やだ。やだ、やだ、お母さん……!」
泣き声が、霧を裂いた。
通りの群れが、一斉にこちらを向いた。
◇
五体。
逃げる時間はなかった。植え込みの後ろはブロック塀。左右は開けた芝地。群れは、もう公園の中に入ってきている。十メートル。八メートル。
缶も、石も、手の届くところにはない。
小刀は腰の後ろにある。抜いたとしても、五体を同時には斬れない。そもそも、ひなたがここにいることが、全部を呼んでいる。
――置いていけば。
その考えが、ほんの一瞬だけ、頭をかすめた。
この子を置いて、自分だけ息を止めれば。透は助かる。群れは、この子にしか気づかない。
「置いていかんで」
あの小さな指の感触が、袖に蘇った。
透は、ひなたを強く抱きしめた。
「ひなたちゃん」
耳元で、息だけの声で。
「お兄ちゃんの、胸の音を聞いてください。……聞こえますか?」
ひなたの泣き声が、少しだけ途切れた。
透は息を吐いた。ゆっくりと、ひなたにも聞こえるように。吐ききって、止める。それから、また少しだけ吸う。
「お兄ちゃんと、同じようにしてください。吐いて……止めて……。置いていきませんから」
ひなたの小さな胸が、透の胸にぴったりとくっついている。その胸が、ぎこちなく、透の呼吸を真似ようとするのがわかった。
吐いて。
止めて。
群れが、六メートルまで近づいている。あと一歩で、見つかる。
透は、自分の心臓の音を沈めていった。いつものように。六十、四十、二十。十五。十。八。意識が、紐のように細くなっていく。
そのとき、不思議なことが起きた。
胸の中の、ひなたの心臓の音が。
透の鼓動に、引き寄せられるように。
ゆっくりと、沈んでいった。
百二十から、八十。六十。四十。六歳の子どもの体に、ありえない速さで。まるで透とひなたの体が、一つの影に縫い合わされていくように。
群れの先頭が、立ち止まった。
鼻先が、空を探る。触手が、狂ったように震える。たった今までそこにあったはずの気配が、消えてしまったのだ。
五体が、散らばる。植え込みの周りを、嗅ぎ回るように徘徊する。
透は、立ち上がった。
自分でも、なぜそうしたのかわからない。ただ、今なら歩けると、体が知っていた。
ひなたを抱いたまま、一歩。
二体の怪物の、ちょうど間を。
二歩。三歩。
怪物の触手が、ひなたの靴のつま先から三十センチのところで揺れている。それでも、届かない。二人は、そこにいない。
十歩。
二十歩。
公園の出口を抜け、通りを渡り、向かいのアパートの外階段の下に滑り込んだ。
そこで、糸が切れた。
透の心臓が、どくんと大きく跳ねた。わずか三十秒。それが限界だった。
けれど、群れはもう、公園の反対側へ散っていた。
◇
外階段の下で、透は吐いた。
胃の中には、ほとんど何も入っていなかった。それでも、体の奥から何かがせり上がってきて、止まらない。
体が、震えていた。指先から、膝から、歯の根から。心臓が急に動き出して、何とか追いつこうとするように、めちゃくちゃに胸を叩いている。
――今のは、何だ。
祖父に教わったどの遊びにも、あんなものはなかった。自分ではない誰かの心臓を、自分の心臓で引っ張って、一緒に沈めるなんて。
いや。
一つだけ、思い当たるものがあった。アパートの押し入れの、桐の箱に入っている、祖父の古い巻物。小さい頃、伊賀の家で、一度だけ見せてもらった。その一番最後の頁に書かれていた、読めない漢字の並び。祖父はそれを指でなぞり、「これは、お前にはまだ早い」と笑った。
影縫い。
たしか、そう読む、と言っていた。
「……お兄ちゃん」
胸の前で、ひなたが小さく言った。もう泣いてはいなかった。その代わりに、細い腕を無理やりマフラーから抜いて、ポケットを探っている。
やがて、ひなたは何かを、透の震える手のひらに押しつけた。
小さな、飴だった。いちご味の、ピンクの包み紙。コンビニで一度差し出しかけて、やめたものだ。
「……あげる。お兄ちゃん、がんばったけん」
その声は、由美の言い方にそっくりだった。
透は、飴を握りしめた。震えが、少しだけ、止まった。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
◇
中学校の四階にひなたを預け、もう一度霧の中を往復して、由美を背負って戻ってきたときには、もう日が傾きかけていた。
廊下で待っていたひなたが、裸足のまま駆け寄ってきて、由美の腰にしがみついた。由美は透の背中から滑り降りると、ひなたを抱きしめ、声を殺して泣いた。
ひなたは、母親の胸の中で、一生懸命に話していた。
「あのね、お母さん。お兄ちゃんとね、ひなた、透明になったとよ」
「透明?」
「うん。バケモノのすぐ横、歩いたと。でも、気づかれんかったとよ。お兄ちゃんは、見えんようになるとよ」
由美が、涙で濡れた顔を上げて、透を見た。
けれど、そこにはもう、誰もいなかった。
透は廊下の端、非常階段の踊り場に座り込んでいた。座ったというより、膝が勝手に折れた。
壁に背中を預ける。コンクリートの冷たさが、汗で濡れたシャツ越しにじわりと染みてくる。
太ももが、小刻みに痙攣していた。大庭さんを背負って一キロ。ひなたを抱いて一キロ。由美さんを背負って一キロ。そのあいだを、何度も空荷で引き返した。昨夜から一睡もしていない。最後に何かを食べたのがいつだったかも、思い出せない。
胸の奥が、まだ鈍く痛んだ。公園で酷使した心臓だ。あれから何時間経っても、ときどき思い出したように、どくん、と変な打ち方をする。
指を開こうとして、うまく開かないことに気づいた。ずっと握りしめていたせいで、手のひらに飴の包み紙の跡がくっきりついている。
二十二年間、誰かを抱えて隠れたことなどなかった。隠れるのはいつも、自分一人だけだった。
一人分の重さが、これほど体に残るものだとは知らなかった。
震える指で、包み紙を開く。たったそれだけのことに、ずいぶん時間がかかった。
飴を口に入れる。安っぽい、いちごの味がした。空っぽの胃に、甘さがじんと沁みていく。
包み紙は捨てずに、小さくたたんで、胸ポケットにしまった。
そのまま、目を閉じた。廊下の向こうで、ひなたがまだ小さな声で話し続けている。その声が、だんだん遠くなっていった。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。




