第5話 小倉の霧(葵)
朝倉葵は、引き金に指をかけたまま、一度だけ深く息を吸った。
十一月十四日、午後三時。福岡市東区、名島の団地。
霧の中で、五階建ての棟が三つ、巨人の墓石のように並んでいる。そのうちの一つの五階から、住民たちが非常階段を一人ずつ降りてくる。老人、女性、子ども。十二名。
階段の下で、第四十普通科連隊の小隊が周囲を固めていた。
「朝倉。右はどうだ」
無線ではなく、肉声だった。無線は、午前中から雑音しか拾わない。この霧のせいだと、誰もがわかっていた。
「異状なし。けど、音が多すぎます。急がせんでください」
小隊長の村井一尉は、苦笑いを浮かべて頷いた。四十手前。小倉の部隊で、葵が一番信頼している上官だ。
「その耳、あてにしとるけんな」
葵は答えず、霧の奥へ小銃を向け続けた。
――昨夜は、帰省中だったのに。
実家の博多に、半年ぶりに帰っていた。母の作った食事を食べ、友人の結婚式に出、帰りに香椎の友人宅に泊まった。その深夜、小腹が空いて、一人でコンビニに出た。
そして、霧が来た。
あの夜のうちに霧の縁まで歩き、福岡の駐屯地から出てきた車両に拾われた。その日の昼、小倉から南下してきた自分の連隊に合流できたのは、奇跡と言ってよかった。村井小隊長は、葵の顔を見るなり「お前、休暇中やろうが」と呆れ、それから何も言わずに小銃を渡してくれた。
こうして今、ここにいる。
「班長、ちょっといいすか」
背後から、部下の松尾が小声で話しかけてきた。二十一歳の陸士長。口数が多く、よく怒られ、それでもなぜか憎めない。
「何」
「班長って、休暇中にあの怪物と素手でやり合ったって本当すか」
「素手なんは、本当」
「マジすか」
「……やり合ってはおらん」
葵は、霧の奥を見つめたまま言った。
「勝手に、おらんくなった」
松尾が何か言いかけた、そのときだった。
地面が、揺れた。
◇
それは、団地の反対側の棟の影から現れた。
高さ三メートル。昨夜の犬ほどの怪物とは、まるで別の生き物だった。全身を、黒い甲殻が鎧のように覆っている。首は短く、太い。頭には、やはり目がない。一歩ごとに、アスファルトが低く鳴る。
「――撃て!」
村井小隊長の号令と同時に、小銃の一斉射撃が霧を裂いた。
弾が、弾かれた。
火花が甲殻の表面で散る。怪物は意にも介さず、音のする方へ――小隊の方へ、重い足取りで向きを変える。その後ろでは、非常階段の住民たちが、悲鳴をこらえて立ちすくんでいた。
――正面は無駄。なら。
葵は射撃の輪から外れ、左へ走った。駐車場の車の影に滑り込み、片膝をつく。怪物の横顔が見える位置。
甲殻は、全身を隙間なく覆っているわけではなかった。脚を動かすたびに、膝の継ぎ目が開いて、薄い灰色の皮膚がのぞく。ほんの指二本分の隙間が、一秒にも満たない時間だけ。
葵は息を吐き、止めた。
霧も、銃声も、自分の心臓の音も、遠くなる。照準の向こうで、甲殻の継ぎ目だけが、妙にくっきりと見える。
怪物が、右の前脚を上げた。
隙間が開く。
一発。
怪物の膝が、内側から弾けたように折れ曲がった。巨体が傾いで、前のめりに崩れる。地響き。
葵はもう、次の隙間を探していた。倒れた怪物の首の付け根。持ち上がった甲殻の切れ目。
二発。三発。
怪物は、もう動かなかった。
「……うそやろ」
松尾が、呻くように言った。
「住民を移動させて! 今のうちに!」
葵は叫んだ。住民たちが非常階段を駆け降り、部下たちが一人ずつ手を引いて、団地の裏手の車両へ誘導していく。
そのとき、霧の向こうから、もう一つの音が聞こえてきた。
爪がアスファルトを引っかく音。一つではない。十、二十、数えきれない。
銃声が、呼んだのだ。
◇
「車両、出せ! 住民を乗せたもんから行け!」
村井小隊長が叫んだ。住民を乗せた二台の車両が、霧の中へ走り去っていく。残ったのは、小隊の半分と、動かなくなった一台だけだった。
灰色の群れが、霧の中から溢れ出してきた。
撃っても、撃っても、減らない。一体倒れるたびに、その銃声が二体を呼ぶ。
「朝倉!」
村井小隊長が、葵の肩をつかんだ。
「お前は部下を連れて、東へ抜けろ。操車場の倉庫がある。そこで日没を待て」
「小隊長は」
「その後から行く」
嘘だと、すぐにわかった。
村井小隊長は、動かなくなった車両の影に立ち、小銃に新しい弾倉を叩き込んだ。自分がここで撃ち続ければ、群れはこちらに集まる。そのことを、この人はわかっている。
「……小隊長」
「行け。命令や」
葵は、一秒だけ動かなかった。
それから、ヘルメットの下で乱れたポニーテールを、片手で慌ただしく結び直した。
「――松尾、今村、長尾。私に続け」
振り返らなかった。振り返れば、足が止まるとわかっていた。
背中で、銃声が鳴り続けていた。
その音は、葵たちが線路を越えるころまで続き――ふつりと、途切れた。
◇
香椎操車場の倉庫は、だだっ広く、冷たかった。
鉄の扉にかんぬきをかけ、荷台やパレットを積み上げて入口を塞いだ。外では、群れが倉庫の周りを徘徊している。壁一枚向こうの、爪の音。湿った呼吸。中にいる四人の気配を、たぶん拾いかけている。
「……班長」
松尾が、膝を抱えて小さく言った。いつもの軽口は、どこにもなかった。
「村井小隊長、後から来ますよね」
葵は、答えなかった。
代わりに、小銃を膝の上に広げた。弾倉を外し、ボルトを抜き、布で拭う。一つひとつ、手順通りに。心を落ち着かせたいときは、いつもこうしてきた。
手が、少しだけ震えていた。
「……松尾」
「はい」
「落ち着いて。たぶん、あいつらは私らの気配を探っとる」
「そんなこと、できるわけ――」
「息をゆっくり吐いて。吐ききって、少しだけ止めて。……そう。上手やん」
松尾の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。今村も、長尾も、それに倣う。倉庫の外の爪の音が、少しずつ遠ざかっていく。
葵は、拭い終えたボルトを、そっと戻した。
気配を、探っている。
それは、昨夜の路地で知ったことだった。あの女の子が泣きじゃくるたびに、怪物たちの首がそちらを向いた。
そして、もう一つ。
――あれは、何だったのだろう。
飛びかかってきた怪物が、空中で身をよじった。どこかで、空き缶の落ちる音がした。ちょうどその瞬間だった。それから霧の奥で、もう一つ何かがぶつかる音がして、残りの二体もそちらへ去っていった。
そんなこと、勝手に起きるはずがない。
空き缶は、ひとりでに飛んでこない。あれほど都合のいい瞬間に、二度も。
誰かが、あそこにいたのだ。
自分のすぐ後ろに。自分にも、怪物にも、気づかれないまま。
「……そんな人間が、おるとやろか」
知らず知らず、声に出ていた。
松尾が、不思議そうに葵を見た。葵は小さく咳払いをして、何事もなかったように小銃を組み直した。
「……何でもなか。今晩は交代で休む。最初は私が起きとく」
「班長、ずっと寝てないじゃないすか」
「寝た。昨日の夜」
「それ、霧が来る前の話じゃないすか」
葵は答えず、倉庫の天井を見上げた。
そういえば、昨夜はあのあと、何も食べていない。
コンビニのカウンターに、袋を置いてきてしまった。中身の見えない袋。カスタードプリンが、三つ。
――結局、食べ損ねた。
こんなときに、何を考えているのだろう。葵は小銃を抱え直し、自分に呆れた。
それにしても、あの店員。
いつから、あそこにいたのだろう。レジの前に立つまで、人がいることにも気づかなかった。親子を預けたときも、「あ、いた」と思った。
顔は、もうよく思い出せない。
ただ、絡まれたあとに「スカッとしました」と言った、妙に落ち着いた声だけが耳に残っていた。
あの店は、あの親子は、無事だろうか。
倉庫の外で、爪の音がまた、近づいてきた。
葵は息を吐き、吐ききって、止めた。
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