↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/46

第5話 小倉の霧(葵)

朝倉葵(あさくらあおい)は、引き金に指をかけたまま、一度だけ深く息を吸った。

十一月十四日、午後三時。福岡市東区、名島(なじま)の団地。

霧の中で、五階建ての棟が三つ、巨人の墓石のように並んでいる。そのうちの一つの五階から、住民たちが非常階段を一人ずつ降りてくる。老人、女性、子ども。十二名。

階段の下で、第四十普通科連隊の小隊が周囲を固めていた。

「朝倉。右はどうだ」

無線ではなく、肉声だった。無線は、午前中から雑音しか拾わない。この霧のせいだと、誰もがわかっていた。

「異状なし。けど、音が多すぎます。急がせんでください」

小隊長の村井一尉は、苦笑いを浮かべて頷いた。四十手前。小倉(こくら)の部隊で、葵が一番信頼している上官だ。

「その耳、あてにしとるけんな」

葵は答えず、霧の奥へ小銃を向け続けた。

――昨夜は、帰省中だったのに。

実家の博多に、半年ぶりに帰っていた。母の作った食事を食べ、友人の結婚式に出、帰りに香椎の友人宅に泊まった。その深夜、小腹が空いて、一人でコンビニに出た。

そして、霧が来た。

あの夜のうちに霧の縁まで歩き、福岡の駐屯地から出てきた車両に拾われた。その日の昼、小倉から南下してきた自分の連隊に合流できたのは、奇跡と言ってよかった。村井小隊長は、葵の顔を見るなり「お前、休暇中やろうが」と呆れ、それから何も言わずに小銃を渡してくれた。

こうして今、ここにいる。

「班長、ちょっといいすか」

背後から、部下の松尾が小声で話しかけてきた。二十一歳の陸士長。口数が多く、よく怒られ、それでもなぜか憎めない。

「何」

「班長って、休暇中にあの怪物と素手でやり合ったって本当すか」

「素手なんは、本当」

「マジすか」

「……やり合ってはおらん」

葵は、霧の奥を見つめたまま言った。

「勝手に、おらんくなった」

松尾が何か言いかけた、そのときだった。

地面が、揺れた。

◇

それは、団地の反対側の棟の影から現れた。

高さ三メートル。昨夜の犬ほどの怪物とは、まるで別の生き物だった。全身を、黒い甲殻が鎧のように覆っている。首は短く、太い。頭には、やはり目がない。一歩ごとに、アスファルトが低く鳴る。

「――撃て!」

村井小隊長の号令と同時に、小銃の一斉射撃が霧を裂いた。

弾が、弾かれた。

火花が甲殻の表面で散る。怪物は意にも介さず、音のする方へ――小隊の方へ、重い足取りで向きを変える。その後ろでは、非常階段の住民たちが、悲鳴をこらえて立ちすくんでいた。

――正面は無駄。なら。

葵は射撃の輪から外れ、左へ走った。駐車場の車の影に滑り込み、片膝をつく。怪物の横顔が見える位置。

甲殻は、全身を隙間なく覆っているわけではなかった。脚を動かすたびに、膝の継ぎ目が開いて、薄い灰色の皮膚がのぞく。ほんの指二本分の隙間が、一秒にも満たない時間だけ。

葵は息を吐き、止めた。

霧も、銃声も、自分の心臓の音も、遠くなる。照準の向こうで、甲殻の継ぎ目だけが、妙にくっきりと見える。

怪物が、右の前脚を上げた。

隙間が開く。

一発。

怪物の膝が、内側から弾けたように折れ曲がった。巨体が傾いで、前のめりに崩れる。地響き。

葵はもう、次の隙間を探していた。倒れた怪物の首の付け根。持ち上がった甲殻の切れ目。

二発。三発。

怪物は、もう動かなかった。

「……うそやろ」

松尾が、呻(うめ)くように言った。

「住民を移動させて! 今のうちに!」

葵は叫んだ。住民たちが非常階段を駆け降り、部下たちが一人ずつ手を引いて、団地の裏手の車両へ誘導していく。

そのとき、霧の向こうから、もう一つの音が聞こえてきた。

爪がアスファルトを引っかく音。一つではない。十、二十、数えきれない。

銃声が、呼んだのだ。

◇

「車両、出せ! 住民を乗せたもんから行け!」

村井小隊長が叫んだ。住民を乗せた二台の車両が、霧の中へ走り去っていく。残ったのは、小隊の半分と、動かなくなった一台だけだった。

灰色の群れが、霧の中から溢れ出してきた。

撃っても、撃っても、減らない。一体倒れるたびに、その銃声が二体を呼ぶ。

「朝倉!」

村井小隊長が、葵の肩をつかんだ。

「お前は部下を連れて、東へ抜けろ。操車場の倉庫がある。そこで日没を待て」

「小隊長は」

「その後から行く」

嘘だと、すぐにわかった。

村井小隊長は、動かなくなった車両の影に立ち、小銃に新しい弾倉を叩き込んだ。自分がここで撃ち続ければ、群れはこちらに集まる。そのことを、この人はわかっている。

「……小隊長」

「行け。命令や」

葵は、一秒だけ動かなかった。

それから、ヘルメットの下で乱れたポニーテールを、片手で慌ただしく結び直した。

「――松尾、今村、長尾。私に続け」

振り返らなかった。振り返れば、足が止まるとわかっていた。

背中で、銃声が鳴り続けていた。

その音は、葵たちが線路を越えるころまで続き――ふつりと、途切れた。

◇

香椎操車場の倉庫は、だだっ広く、冷たかった。

鉄の扉にかんぬきをかけ、荷台やパレットを積み上げて入口を塞いだ。外では、群れが倉庫の周りを徘徊している。壁一枚向こうの、爪の音。湿った呼吸。中にいる四人の気配を、たぶん拾いかけている。

「……班長」

松尾が、膝を抱えて小さく言った。いつもの軽口は、どこにもなかった。

「村井小隊長、後から来ますよね」

葵は、答えなかった。

代わりに、小銃を膝の上に広げた。弾倉を外し、ボルトを抜き、布で拭う。一つひとつ、手順通りに。心を落ち着かせたいときは、いつもこうしてきた。

手が、少しだけ震えていた。

「……松尾」

「はい」

「落ち着いて。たぶん、あいつらは私らの気配を探っとる」

「そんなこと、できるわけ――」

「息をゆっくり吐いて。吐ききって、少しだけ止めて。……そう。上手やん」

松尾の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。今村も、長尾も、それに倣う。倉庫の外の爪の音が、少しずつ遠ざかっていく。

葵は、拭い終えたボルトを、そっと戻した。

気配を、探っている。

それは、昨夜の路地で知ったことだった。あの女の子が泣きじゃくるたびに、怪物たちの首がそちらを向いた。

そして、もう一つ。

――あれは、何だったのだろう。

飛びかかってきた怪物が、空中で身をよじった。どこかで、空き缶の落ちる音がした。ちょうどその瞬間だった。それから霧の奥で、もう一つ何かがぶつかる音がして、残りの二体もそちらへ去っていった。

そんなこと、勝手に起きるはずがない。

空き缶は、ひとりでに飛んでこない。あれほど都合のいい瞬間に、二度も。

誰かが、あそこにいたのだ。

自分のすぐ後ろに。自分にも、怪物にも、気づかれないまま。

「……そんな人間が、おるとやろか」

知らず知らず、声に出ていた。

松尾が、不思議そうに葵を見た。葵は小さく咳払いをして、何事もなかったように小銃を組み直した。

「……何でもなか。今晩は交代で休む。最初は私が起きとく」

「班長、ずっと寝てないじゃないすか」

「寝た。昨日の夜」

「それ、霧が来る前の話じゃないすか」

葵は答えず、倉庫の天井を見上げた。

そういえば、昨夜はあのあと、何も食べていない。

コンビニのカウンターに、袋を置いてきてしまった。中身の見えない袋。カスタードプリンが、三つ。

――結局、食べ損ねた。

こんなときに、何を考えているのだろう。葵は小銃を抱え直し、自分に呆れた。

それにしても、あの店員。

いつから、あそこにいたのだろう。レジの前に立つまで、人がいることにも気づかなかった。親子を預けたときも、「あ、いた」と思った。

顔は、もうよく思い出せない。

ただ、絡まれたあとに「スカッとしました」と言った、妙に落ち着いた声だけが耳に残っていた。

あの店は、あの親子は、無事だろうか。

倉庫の外で、爪の音がまた、近づいてきた。

葵は息を吐き、吐ききって、止めた。

お読みいただきありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。