第4話 往復
「背負いますよ」
「おう。……うおっ」
大庭さんを背負って立ち上がると、想像していたよりずっと軽かった。骨ばった肩が、透の首筋に当たる。杖は、透のベルトに差した。
「いいですか。理由はわかりませんけど、あいつらに近づかれたら、ばれます。僕が腕を二回叩いたら、息を止めてください。できるだけ長く」
「息を止める、とね」
大庭さんは、透の背中でくつくつと笑った。
「兄ちゃん、わしは元海自の潜水員ばい。息を止めるんは、わしの本職たい」
由美が、ひなたを抱いて通用口まで見送りに来た。右足を少し引きずっている。昨夜、ジャンパーの男に突き飛ばされたときに捻ったのだと、朝になって打ち明けられた。
「気をつけて」
「二十分で戻ります。シャッターは開けないで」
ひなたが、由美の肩越しに小さく手を振った。透は振り返さずに、霧の中へ出た。
◇
一人のときとは、何もかもが違った。
背中に、心臓が一つ多い。大庭さんの心臓は、老人らしく少し不規則に、けれどしっかりと打っている。その音は、透には消せない。
だから道を選ぶ。群れの通り道から、必ず十メートル以上離れた道を。庭を抜け、塀の内側を伝い、駐車場の車の影に身を寄せる。朝一人で歩いたときの地図を、透は一歩ずつなぞっていく。
八百メートルまでは、順調だった。
九百メートル地点、線路沿いの細い道で、透は足を止めた。
前方の霧の中で、何かが動いている。
朝にはいなかった群れだ。五体。線路の上を、こちらへ向かって歩いてくる。
引き返すには、道が狭すぎた。脇道はない。片側はフェンス、片側は三階建ての倉庫の壁。
――距離、十五。十二。
透は倉庫の壁に背中をつけた。そして、首に回された大庭さんの腕を、二回叩いた。
背中の心臓が、すっと静かになった。
息を止める音もしなかった。ただ、大庭さんの体が、水の中に沈んだように力を抜いて、透の背中に溶けた。
――この人、本当に。
心臓の音が、遅くなっていく。透ほどではない。それでも、一分に四十を切っている。七十八歳の体が、五十年前の海の底を覚えている。
群れが近づいてくる。十メートル。八メートル。
先頭の一体が、立ち止まった。鼻先を上げ、触手を広げる。
透は瞬きもせずに、その触手の先を見つめた。
――六メートル。拾えない。拾わせない。
やがて、その一体は首を戻した。群れは線路を外れ、左の路地へ曲がっていく。
足音が完全に消えるまで待ってから、透は大庭さんの腕を一回だけ叩いた。
背中で、長い長い息が吐き出された。
「……一分半。若い頃は、三分はいけたっちゃけどね」
「助かりました」
「いや。兄ちゃんの心臓の音の方が、わしよりずっと静かだったばい。……そういうもんは、背中でわかる」
大庭さんはそれ以上、何も聞かなかった。
◇
香椎東中学校は、四階建てだった。
非常階段の下には、朝と同じ見張りの男性がいた。古賀と名乗った。この辺りで工務店をやっているらしい。古賀さんは大庭さんの姿を見て目を丸くし、それからその下の透に気づいて、もう一度目を丸くした。
「あんた、朝の……。今度は爺さん運んできたとね」
非常階段を上る。一階、二階、三階は、空っぽだった。教室の扉は開け放たれ、机も椅子も運び出されている。その代わりに、建物の中には、もう一つのものが充満していた。
息を殺す人たちの、重たい沈黙だ。
四階の廊下には、三十人近い人が、毛布や体操マットにくるまって座り込んでいた。誰も喋らない。子どもでさえ、口を結んでいる。床を歩く人は皆、裸足だった。
廊下の壁に、毛筆で書いた貼り紙がある。
【三階より下に下りない】
【大きな声を出さない】
【窓に近づかない】
「あいつらは、上には上がってこんとよ」
古賀さんが、小声で教えてくれた。
「昨日の夜は、一階におった人らが、やられた。二階も、ちょっと。生き残ったんは、三階から上におった人らばっかりらしい。けど、物音はずっと遠くまで届くけんね。念のため、みんな四階に避難しとっとよ」
「……あの貼り紙も、ですか」
「校長先生たい。ここの、堤先生。夜のうちに、生き残った人を全員四階に上げて、ああいう決まりを作らした。あいつらが物音に寄ってくるって気づいたんも、あの先生が最初やった」
古賀さんは、廊下の奥の教室を目で示した。黒板の前で、白髪交じりの小柄な女性が、名簿らしき紙に小さな字で何かを書き込んでいる。その周りでは、何人かの大人が指示を待つように、声を潜めて立っていた。
「防災の担当を長いことやっとった人でな。……あの先生がおらんかったら、ここも一階と同じことになっとったばい」
――やっぱり。
透の頭の中で、朝に見たものがつながった。マンションの上の階の人影。一度も上を見なかった群れ。
大庭さんを背から下ろすと、廊下の奥から小さな影が駆け寄ってきた。ランドセルの男の子だった。
「……霧のお兄ちゃん」
男の子は、声を出さずに口だけを動かして、そう言った。それから、洋服のポケットから一枚のカードを取り出して、透に押しつけた。キラキラした、ゲームのカードだった。
「……お礼」
透は何と言っていいかわからず、それを上着の胸ポケットにしまった。
◇
「で、この爺さんの分の食いもんは、誰が出すとね」
廊下の突き当たりで、太った男が腕を組んでいた。
五十代の半ば。この状況で、一人だけシャツにアイロンがかかっている。その背後には、理科室の扉があった。扉の前に、男の取り巻きらしい二人が立っている。
「ここはただでさえ人が多いとよ。水も食いもんも、割り当ては自治会が決めとる。後から来たもんは、後回しや」
古賀さんが、苦い顔で小声を寄こした。
「自治会長の塩崎さんたい。この辺の町内のね。……悪い人じゃないんやけど、なんというか」
透は知っていた。
塩崎。自治会長。町内会費を個人の口座に移している男だ。通帳を前にして、女房に「誰も気づかんけん」と笑っているところを、半年前に窓の外から見た。それ以来、既に三回、同じような場面を覗いている。
――理科室の中、たぶん一番いい食料があるな。
塩崎は大庭さんをじろじろと眺めた。それから、その後ろに立つ透を――見なかった。気づいていないのだ。
「爺さん、一人で来たとね? その歳で、よう生きとったな」
「一人じゃなか」
大庭さんは、不意に声を強めた。周りの住民が、ビクリとそちらを見る。
「この兄ちゃんが、わしを背負うて、あの霧の中を一キロ歩いてきたとたい。……影の薄い子やと思っとったが」
大庭さんは、そこでふっと笑った。
「薄いんじゃなか。見えんだけたい。あんたらには」
塩崎が、ようやく透に気づいて、一歩後ずさった。
「……なんな、お前。いつからそこにおったと」
「あ、いや、大丈夫です」
透は無難に笑ってみせた。塩崎は山のような腹を揺らして、ふんと鼻を鳴らした。
「まあよか。爺さんの分は、何とかしちゃる。その代わり、わしの言うことは聞いてもらうけんね」
塩崎は取り巻きを引き連れて、理科室の中に戻っていった。扉が閉まる一瞬、中に積まれた段ボールの山が見えた。カップ麺。レトルト。粉ミルク。
古賀さんが、ばつが悪そうに頭を下げた。
「すまんね。ここの物資は、もともと自治会の備蓄やけん、あの人が仕切っとると。堤先生も、人の世話で手一杯で、そっちまでは目が届かんとよ。……あんた、まだ連れてくる人がおると?」
「あと二人。母親と、六歳の女の子です」
「そうか。入れるように、私からも言うとくけん。……あ、塩崎さんには、何も言わんでよかよ。あの人、自分を通さんと機嫌が悪くなるけん」
「言いませんよ」
透は理科室の扉をちらりと見て、小声で付け足した。
「あの腹、非常食をもう半分くらい詰め込んでそうですし。消化の邪魔しちゃ悪いんで」
「……確かにな」
古賀さんは、小声で言って、あわてて口を押さえた。理科室の扉の方を、ちらりと見た。
◇
コンビニに戻ったのは、出てから二十八分後だった。
床には由美が座り、その膝の上でひなたが眠っていた。ひなたの口元が、少しだけ甘い匂いをさせている。由美が、ポケットに入れていた飴を一つ、あげたのだそうだ。
「二十分、過ぎてましたね」
由美はそう言って、少しだけ笑った。強がりだと、すぐにわかった。
「すみません。途中で一回、止まったんで」
透は由美の右足を見た。足首が、朝よりも腫れている。歩けないことはない。けれど、霧の中を一キロ、音も立てずに歩くのは無理だ。
背負うしかない。そうなると、ひなたと由美を同時には運べない。
どちらかを、一人でここに残すことになる。
透が口を開くより先に、由美が言った。
「この子を、先にお願いします」
その声は、震えていなかった。
「私、もう決めてました。あなたが大庭さんを背負って出ていったときから」
「……いいんですか。僕、昨日会ったばっかりの、影の薄いバイトですよ」
由美は、眠っているひなたの髪を、ゆっくりと撫でた。
「昨日の夜、あの怪物たちが店に入ってきたとき。あなた、一人で、怪物の前に立っていた。……私、あの背中をずっと見てましたから」
透は、何も言えなかった。
見られていた。そんなことは、二十二年間で一度もなかった。
「……二十分で、戻ります」
ようやくそれだけ言って、透は、由美の膝の上の小さな体に、そっと手を伸ばした。
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