第3話 一人なら逃げられる
夜のあいだじゅう、霧の向こうから悲鳴が聞こえていた。遠くで、近くで。一つ途切れると、また別の方角から上がる。そのたびに、四人は冷凍庫の脇で身を縮め、息を殺した。悲鳴が聞こえなくなったのは、空が白みはじめてからだった。
朝になっても、霧は晴れなかった。
シャッターの隙間から外を覗くと、世界は牛乳を溶かしたような白に沈んでいた。太陽がどこにあるのかもわからない。ただ、夜よりは明るい。
携帯は圏外のまま。
「この辺の避難所ゆうたら、香椎東中学校やね」
大庭さんが、床に指で地図を描きながら言った。
「ここから北へ一キロちょっと。四階建ての校舎やけ、人が集まっとるなら、あそこやろ」
「先に、空いてる道があるか見てきます」
透が立ち上がると、由美が不安そうに顔を上げた。
「一人で、ですか」
「一人の方が、速いんで」
本当のことだった。そして透は、口には出さないもう一つの理由を、その後ろに隠していた。
――一人なら、たぶん、簡単に届く。
◇
霧の街は、音がなかった。
車の音も、鉄道の音も、鳥の声もない。乗り捨てられた車が交差点の真ん中でドアを開けたまま止まっている。信号機は消えている。歩道に、片方だけのスニーカーが転がっていた。
透は息を殺したまま、建物の影から影へ移っていく。
二つ目の角で、最初の群れを見つけた。
六体。大通りを、鼻先を地面に近づけたままゆっくりと歩いている。巡回しているようにも、獲物を探しているようにも見える。
透は一つ、気づいたことがあった。
通りに面したマンションの上の階の窓に、人影がある。三階、四階。カーテンの隙間から、息を殺して下を見下ろしている。群れはその真下を通りながら、一度も上を見なかった。
――上には、届かないのか。
届くのは、そう遠くまでじゃない。昨夜のコンビニでも、あいつらは店の外から、中にいる透たちに気づいていなかった。裏口から入り込んできて、ようやく気づいた。
透は頭の中の地図に、一つずつ印をつけていく。ここは群れの通り道。ここは空いている。この路地は行き止まり。
覗きで町を歩き尽くした三年間が、妙な形で役に立っていた。どの家の庭が抜けられるか。どのブロック塀に足がかけられるか。どのアパートの外階段が裏通りへつながっているか。全部、知っている。
――たくさん覗いてきたんだな。
我ながら、変人だと思った。
◇
途中、透は自分のアパートに寄った。コンビニから三百メートル。築四十年の木造二階建ての、二階の角部屋だ。
押し入れの奥から、細長い桐の箱を引っぱり出す。福岡に来るとき、母に押しつけられたものだ。「じいちゃんのもんや。持っていき」。三年間、一度も開けていない。
蓋を開けると、白鞘の小刀と、一本の古い巻物が入っていた。
小刀を抜く。刃渡りは三十センチほど。手入れなどしていないはずなのに、曇り一つない。子どもの頃、祖父の庭で、木の枝を刀に見立ててさんざん練習させられた。気づかれずに背後に立ち、首筋の一点へ。あれも遊びだと思っていた。
――昨夜、缶じゃなくてこれがあったら。
透は首を振った。あったら、どうしたというのか。自分は、ただのコンビニ店員だ。
それでも、小刀をベルトの背中側に差し込んだ。巻物は、箱に戻した。
アパートの外階段を降りたところで、透は足を止めた。
ゴミ集積所の前に、一体。首を持ち上げ、触手を震わせながら、すぐそばの家の壁際を行ったり来たりしている。何かを探している。
その家の二階の窓に、小さな顔が見えた。カーテンの隙間から、子どもが下を覗いている。怪物は、あの子の気配を拾っているのだ。まだ場所までは絞り込めていない。けれど、壁をよじ登られるのは時間の問題だ。あの子が声を上げれば、そこで終わりだ。
透は息を吐き、止めた。
足音を消して、怪物の背後へ回る。一メートル。昨夜と同じだ。怪物は透に気づかない。
小刀を抜く。
祖父の庭で、何千回と繰り返した動き。気づかれずに背後に立ち、首筋の一点へ――。
刃が、灰色の皮膚に吸い込まれた。
手応えは、思ったより軽かった。怪物は声も上げずに崩れ落ちた。倒れる体を、透は片手で受け止め、音を立てないように地面へ下ろす。
手のひらに、生暖かい灰色の体液が伝った。
二階の窓で、子どもがぽかんと口を開けている。透は人差し指を唇に当て、それから、窓から離れるように手で合図した。カーテンが、そっと閉じた。
――気づかれなければ、斬れる。
昨夜は、隠れるための技だった。今朝、それが殺すための技にもなった。
透は小刀を拭い、もう一度息を殺して、霧の中へ戻った。
◇
ドラッグストアの前で、男が一人、シャッターをこじ開けていた。
バールで金属を引っ掛けるたびに、ぎい、ぎい、と耳障りな音がする。足元には、もう大きなリュックが二つ。中身はたぶん、薬と食料だ。
透は角の影で足を止めた。
男の顔には見覚えがあった。この辺りのアパートの大家で、認知症の老人たちから家賃を二重に取っている男だ。透は一度、帳簿を書き換えているところを窓から見たことがある。
この音を立て続ければ、そのうち群れが来る。
透は少しだけ考えて、そのまま通り過ぎた。
――まあ、あの人なら自分で何とかするだろ。
◇
中学校まで、あと三百メートル。
そこで、「それ」は聞こえた。
高い、絶叫に近い電子音。ピリリリリリ、と霧を切り裂く音が、左の路地の奥から響いてくる。
防犯ブザーだ。
そして、その音と共に、小さな足音。転びそうになりながら必死に地面を蹴る音。
さらにその後ろに、爪がアスファルトを引っかく音が、いくつも。
路地から飛び出してきたのは、男の子だった。小学六年生くらい。ランドセルを背負ったまま、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしている。ランドセルの肩ベルトで、紐の抜けた防犯ブザーがけたたましく鳴り続けていた。
その後ろに、灰色の影が四つ。
――あれじゃ、どこに逃げても追いかけられる。
ブザーの音が、怪物たちを呼んでいるのだ。男の子はそれに気づいていない。怖くて、紐を差し戻すこともできない。
男の子が、足をもつれさせて転んだ。
透はもう、走っていた。
霧の中を、音もなく。男の子の背後に滑り込み、ランドセルから防犯ブザーをむしり取る。そのまま振り向きもせず、反対側の路地へ、力一杯放り投げた。
ピリリリリ、という音が、弧を描いて霧の奥へ飛んでいく。
四体の首が、そろってそちらを向いた。
透は男の子を小脇に抱え、口を片手で塞いだ。耳元で、息だけの声で言う。
「息を止めて。僕と同じように」
男の子の体が、がちがちに強ばる。心臓が、小鳥のように速く打っているのが、腕越しに伝わってくる。この音も、近づかれたら拾われる。
四体は、ブザーの音を追って駆け出した。
透はその反対側へ走った。男の子を抱えたまま、庭を一つ、塀を一つ、アパートの外階段を一つ。どれも、覗きで何度も通った道だった。
◇
香椎東中学校の校門は、机や椅子で塞がれていた。
校庭には誰もいない。けれど、四階の窓に、いくつもの人影が見えた。
校舎の裏手に回ったところで、透は男の子を地面に下ろした。非常階段の下で、中年の男性が見張りに立っている。男性は、男の子の姿だけを見て、強張った顔で手招きした。
「早よ! ……一人で来たと?」
「いや、僕が――」
「そこにおったとね! びっくりした……」
いつものことだ。透は男の子を男性に預けた。男の子はそこで初めて、大声で泣き出した。男性が慣れた手つきでその口を塞ぎ、非常階段を駆け上っていく。
「上へ上がり、あんたも。下の階におったら危なかけん」
「後で、来ます」
男性は反対しかけたが、そのときにはもう、透は霧の中へ戻っていた。
◇
帰り道は、拍子抜けするほど簡単だった。
群れの通り道は、もう頭に入っている。息を殺し、影から影へ移る。一度は三体の群れのすぐ横を通り抜けたが、どの個体も透の方を向かなかった。
――一人なら、簡単に届く。
このまま中学校に残ればよかったのだ。そうすれば、安全な四階で、毛布にくるまって、救助を待つことができた。
老人と、母親と、六歳の子ども。連れて歩けば、必ずどこかで音が出る。三人とも、透のように気配を消すことはできない。群れに近づかれたら、終わりだ。
それは、一人のときとはまったく別の話だ。
コンビニの裏口で、決めておいた合図の三回ノックをする。
錠が外れるより先に、扉の内側で小さな足音が駆け寄ってきた。
扉が開いた瞬間、ひなたが透の上着の裾にしがみついた。
「……お兄ちゃん」
小さな指が、透の袖をぎゅっと握る。
「置いていかんで」
その声は、震えていた。けれど泣いてはいなかった。母親の真似をして、泣かないように必死に唇を噛んでいる。
奥で、由美が立ち上がりかけて、そのまま動かなくなっていた。大庭さんは壁にもたれたまま、黙って透を見ている。
誰も、「帰ってきてくれた」とは言わなかった。「帰ってこないと思った」とも。
だから透は、自分が何を考えていたか、全部見られていたような気がした。
「……外、あいつらだらけです。大通りも、線路沿いも、群れがうろついてます」
奥で、由美が息を呑んだ。
「中学校には、人が集まってました。四階に。あいつら、上の階には来ないみたいです。けど、四人でぞろぞろ歩いたら、まず見つかります」
「……じゃあ」
「一人ずつ連れていきます。道はもう、覚えましたんで」
ひなたが、透の顔を見上げた。意味がわかったのかどうか。ただ、袖を握る指に、もう一度だけ力がこもった。
大庭さんが、ふっと息を吐いた。
「……一人ずつて。何往復する気ね」
「先に言っときますけど、最初は大庭さんです。よぼよぼなんで」
「こら、誰がよぼよぼか」
由美が、床に座り込んだまま、声を殺して笑った。昨夜から初めての、笑い声だった。
ひなたは、まだ透の袖を放さない。
透はその小さな頭に、不器用に手を乗せた。
「置いていきませんよ。……たぶん」
「たぶん、いらん」
「……置いていきません」
ひなたは、ようやく袖を放した。
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