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第2話 目のないもの

シャッターを半分まで下ろしたところで、霧の中から声がした。

「おーい、兄ちゃん。待っちゃらんね」

杖をついた老人が、よろめきながら駆けてくる。白髪を短く刈り込み、背筋だけは妙にまっすぐな、七十八歳の常連客。毎日欠かさず、同じ銘柄のたばこを一箱買っていく、大庭さんだった。

透はシャッターの下をくぐり、大庭さんの腕を取って店に引き入れた。

「助かった。……兄ちゃん、今日は夜勤やったとね」

「毎晩いますけど」

「そうやったか。いや、すまんすまん」

大庭さんは笑い、それから急に真顔になって、霧の向こうを振り返った。

「海の方で、何かあったばい。港の方から、変なもんがやってきよる。わしはこの目で見た」

「灰色の、犬みたいなやつですか」

「見たとか」

「さっき、少し」

大庭さんは透の顔をまじまじと見た。何か言いかけたが、店の奥から聞こえた子どものしゃくりあげに、言葉を飲み込んだ。

バックヤードの前の床に、さっきの母親と女の子が座り込んでいる。母親は佐伯由美と名乗った。三十四歳。女の子はひなた、六歳。夫は出張中で、マンションの部屋にいるのが怖くて外へ出たところを、あれに追いかけられたのだという。

「さっきの、自衛隊の方は……」

「部隊に合流するそうです。救助を連れてくるって」

由美は小さく頷き、ひなたの髪を何度も撫でた。ひなたは透を見上げていた。泣き腫らした目で、じっと。

「……お兄ちゃん、だれ?」

「ここの店員です」

「さっき、おった?」

「いましたよ。ずっと」

ひなたは首をかしげた。それから、手に握りしめていた何かを、透の方へ差し出しかけて、やめた。

透はシャッターを最後まで下ろそうと、店の入口に戻った。

◇

下ろしかけたシャッターの隙間から、男の顔が覗いた。

さっき自衛官の女性に絡んで床に転がされた、ジャンパーの男だった。

「開けろ! 開けんか、こら!」

男は隙間に体をねじ込もうとしている。顔は真っ青で、ジャンパーの袖が裂けていた。

透は一瞬だけ迷い、シャッターを持ち上げた。クズでも、外に置いておけば死ぬ。それで寝覚めが悪くなるのは、ごめんだった。

男は店に転がり込むなり、透を突き飛ばした。そのまま奥へ走り、バックヤードの前に座り込んでいた由美の肩をつかむ。

「どけ! そこは俺が隠れる!」

「きゃっ」

由美が床に倒れ、ひなたが悲鳴を上げた。

男は二人をまたいで、バックヤードの扉を勢いよく開けた――そこで、止まった。

バックヤードの中は、静かだった。何も動いていない。

ただ、床と壁に、赤黒いものが飛び散っていた。倒れた棚。踏み潰された段ボール。そして、開け放たれたままの裏口から、乳白の霧がゆっくりと流れ込んでいる。

透の背筋に冷たいものが走った。ここは、店長が仮眠を取っていたはずの部屋だ。

――店長。

仮眠用の簡易ベッドは空で、毛布が床へ引きずり落とされている。赤黒い跡はそこから裏口へ、何かを引きずったように続いていた。裏口の敷居に、店長のサンダルが片方だけ転がっている。

停電で目を覚まし、外の様子を見ようと裏口を開けたのだろう。そして、そのまま霧の中の何かに――。

「な、なんな、これ……」

ジャンパーの男が後ずさる。その背中が、透の胸にぶつかった。

男は振り返り、透を見て、叫んだ。

「お前、いつからそこに――」

声が大きすぎた。

開け放たれた裏口の向こう、霧の中から、灰色の何かが滑り込んできた。店長を連れ去ったものが、まだそこにいたのだ。

一瞬だった。男の体が、足から引きずられる。血で滑る床を爪で掻く音。悲鳴。そして、裏口から霧の中へ。

裏口の外で、悲鳴が途切れた。

誰も、動けなかった。

透はバックヤードの扉を叩きつけるように閉めた。それから入口へ走り、シャッターを最後まで引き下ろして錠をかける。手が震えて、二度、鍵を落としかけた。

背後で、ひなたがしゃくりあげる。由美がその口を手で塞ぐ。大庭さんが、壁に手をついて荒い息をしている。

透は振り返り、三人に向かって、ゆっくりと言った。

「息、止めてください」

◇

裏口からは、もう群れが入り込んでいた。

バックヤードの小窓越しに、透は数を数える。灰色の背中が、五つ。棚の間を、鼻先を揺らしながら歩き回っている。

――音か、熱か、心臓か。

さっきの路地で、透は一つ確かめていた。あいつらは目で見ていない。透が息を殺して立っていたとき、怪物は一メートルの距離で素通りした。けれど女の子の泣き声には、三体が揃って首を向けた。

なら、隠れる場所は一つしかない。

透は三人を、売り場の奥にある業務用の大型冷凍庫の脇へ連れていった。停電しても、中はまだ冷たい。透は冷凍庫の扉を大きく開け放った。白い冷気が床を這うように流れ出し、三人の体を包む。――熱で探しているなら、少しはごまかせるかもしれない。

「ここで、じっとしていてください。声は出さない。息はゆっくり、細く。ひなたちゃん、できますか?」

ひなたは由美の腕の中で、こくりと頷いた。

「兄ちゃんは、どうすると」

大庭さんが小声で聞いた。

「僕は、大丈夫です」

「大丈夫て、あんた……」

「影が薄いんで」

冗談のつもりだった。大庭さんは笑わなかった。

透は売り場の真ん中、レジの前に立った。

目を閉じる。

息を吐く。吐ききって、止める。

心臓が、沈んでいく。六十、四十、二十。指先が冷え、肌の表面から体温が引いていく。体の芯だけが、小さな火種のように残る。

鼓沈め(つづみしずめ)。祖父はそう呼んでいた。子どもの頃は、ただの我慢比べだと思っていた。どちらが長く死んだふりをしていられるか。祖父はいつも、透が先に音を上げるのを見て笑った。

――じいちゃん。これ、何のための遊びだったんだよ。

バックヤードの扉が、内側から押し開けられた。

灰色の怪物が、一体、また一体と売り場に入ってくる。床を引っかく爪の音。湿った呼吸。口の周りの触手が、空気を探るように震えている。

透の目の前を、一体が通り過ぎた。

五十センチ。

怪物の脇腹が、透のエプロンをかすめそうになる。透は瞬きもしない。心臓は、一分に八回。人間の体が出せるはずのない静けさ。

怪物は止まらなかった。透など、そこに置かれたマネキンか何かのように素通りして、売り場の奥へ向かっていく。

冷凍庫の方へ。

三人の隠れている方へ。

――そっちは、駄目だ。

透は、動いた。

足音はない。床に体重を預けず、棚の陰を伝って、売り場の反対側へ回り込む。雑誌コーナーの前で、棚から缶詰めを二つつかむ。

一つを、床を滑らせるように、足元へ転がした。

ごろごろごろ、と鈍い振動が床を伝う。冷凍庫へ向かっていた先頭の一体が、ぴたりと足を止めた。

五体の首が、ぐるりと雑誌コーナーの方を向く。透はそのすぐ横で、息を止めたまま立っている。怪物たちは缶詰めの転がった床を鼻先で探り、その触手が、透の足元を、膝を、何度もかすめた。

それでも、気づかない。

透はもう一つの缶詰めを、今度はバックヤードの方へ転がした。開け放たれた裏口の、その先へ。

冷凍庫の陰で、ひなたの喉が、ひくっと鳴った。

四体が、缶詰めを追ってバックヤードの方へ流れていく。だが最後の一体だけが、その場に残って、冷凍庫の方へ首を向け直した。透は飲み物の棚から瓶ジュースを一本つかみ、開いたバックヤードの扉の向こう、裏口をめがけて力いっぱい投げた。

がしゃん、と瓶が裏口の床で砕け散る派手な音が、店じゅうに響いた。

最後の一体が、弾かれたように振り向いた。

先に転がした缶詰めは、裏口の段差に当たって跳ね、外の暗がりへ転がり出ていった。

五体は、音を追って駆け出した。バックヤードを抜け、裏口から霧の中へ。

透はその背中を追い、裏口の扉を静かに閉め、錠をかけた。

売り場に戻る。冷凍庫の陰に、三つの顔がある。

「……もう、いいですよ」

透がそう言った瞬間、由美が声を殺して泣き出した。ひなたは母親の胸に顔を埋めたまま、動かない。大庭さんだけが、売り場の真ん中に何事もなかったように立っている透を、黙って見つめていた。

「兄ちゃん。あんた、あいつらの真横におったろうが」

「はい」

「なんで、気づかれんと」

大庭さんはしばらく何か考えていたが、やがて首を振り、壁にもたれて座り込んだ。

「……七十八年生きてきて、こげなもんは初めて見たばい」

◇

シャッターの隙間から、灰色の光が差し込み始めた。

夜明けが近い。

由美とひなたは、冷凍庫の脇で寄り添って眠っている。大庭さんは、壁にもたれたまま目を閉じている。眠っているのかどうかは、わからない。

透は一人、売り場の真ん中に座っていた。

床には、怪物たちの爪が残した白い引っかき傷が、何本も走っていた。透はそれを、じっと見つめた。

あの触手は、透の膝を何度もかすめた。

――気づかれない。あれだけ近くても。

その事実が、ゆっくりと腹の底に落ちてくる。

触手に膝をなでられたときも、心臓は一度も跳ねなかった。毎晩欠かさず続けてきた、鼓沈めの稽古のおかげだ。

――着替えを覗くときだけは、興奮で少し跳ねる。見つかるほどじゃないけど。

いつか無の境地で覗いてみせる。ただそれだけのために、二十二年磨いてきた技だった。

……念のため言っておくと、霧島透とはそういう男である。休日は一人で気配を消して町を歩き、他人の暮らしを眺めて過ごす。筋金入りの陰キャで、筋金入りの変態だった。当然友達はいない。彼女もいるわけがない。

そんな男の技が、怪物にも通じてしまった。

透は立ち上がり、カウンターの上に置きっぱなしだった袋を手に取った。中には、プリンが二つ。

冷蔵ケースは止まっている。それでも、まだ少しだけ冷たい。

透はプリンを一つずつ、冷蔵ケースの一番奥に戻した。誰にも取られないように、棚の陰になる場所に。

「……次会ったら、渡す。ついでに、ちょっと覗かせてもらおう」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

胸元の鈴は、今夜も静かなままだった。

お読みいただきありがとうございます。

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