第1話 気づかれない男
「おはようございます」
十一月十三日、午後十時。夜勤の時間ぴったりに店に入った霧島透は、レジの奥の店長に声をかけた。
店長の肩が、びくっと跳ねた。
「うわっ。……やっぱり霧島くんか。びっくりさせんでよ」
「今、来ました」
「……品出し、頼むわ」
三年目だ。この店で夜勤を始めて三年、店長は透が声をかけるたびに、こうして飛び上がる。声をかけられるまで、透がそこにいることに気づかないのだ。
透は気にしない。バックヤードで上着を脱ぎ、制服のシャツに袖を通す。首から下げた小さな鈴の根付を、シャツの内側に落とし込む。祖父の形見だ。幼い頃、祖父はこれを透の首に掛けて言った。「これを鳴らさんように暮らせ。走っても、転んでも、寝返りを打ってもじゃ」。それから十年以上、この鈴は透の胸で、一度も鳴っていない。エプロンの紐を結び、品出しのカゴを手に取る。
福岡市東区、香椎。駅から少し外れた住宅街のコンビニは、この時間になると客もまばらだ。
透は二十二歳。福岡の国立大学の経済学部三年。影が薄い。それだけが、自他ともに認める唯一の特徴だった。
大学では、ゼミで発言するたびに「いたの?」と驚かれる。飲み会では、会計のときだけ数に入れ忘れられる。集合写真では、なぜかいつも端で見切れている。
けれど、透はそれを悲しいと思ったことがない。
見られないということは、見放題ということだ。
◇
午前零時、休憩。
透は缶コーヒーを一本ポケットに入れ、裏口から駐車場へ出た。
駐車場の隅に、見慣れた軽自動車が停まっている。この一週間、毎晩同じ時間に来る若いカップルだ。窓を少しだけ開けて、何やら揉めている。
透は缶コーヒーを開けもせず、その車の方へ歩いていった。足音は立てない。息は細く、長く。そして、運転席の窓のすぐ横に立った。
「だけん、あの子とは何もないって言いよるやん」
「じゃあなんで、スマホ伏せて置くと」
運転席の男が、苛立ちまぎれに窓の外へ顔を向けた。その視線は、窓のすぐ外に立つ透の胸元を素通りして、また助手席に戻る。
――今日は彼女の勝ち。三分後に、彼氏がスマホを差し出して和解。
二分五十秒後、彼氏がスマホを差し出した。透は小さく頷く。
他人の生活を覗くのが、透の唯一の趣味だった。常連客の浮気も、隣の部屋の大学生がアイドルのライブで泣いていることも、町のことなら大抵知っている。手を伸ばせば届く距離で、誰にも気づかれずに。
祖父に叩き込まれた「遊び」のおかげだ。息を殺し、気配を消し、足音を立てずに歩く。伊賀の山奥で育った母方の家は、昔は忍びの家系だった。今の時代に何の役にも立たない家芸だと、透は思っている。
覗き以外には。
カップルの車が出ていく。透は立ち上がって、ようやく缶コーヒーを開けた。
ふと、駐車場の街灯の下を、青い光がよぎった。
指先ほどの虫が、ぼんやりと光りながら漂っている。ヨミボタル。十年ほど前から九州の沿岸に住み着いた外来種で、どこから来たのか誰も知らない。十一月に飛ぶのは珍しかった。
「……季節外れだな」
透は空き缶をつぶして、店に戻った。
◇
午前二時半。
店内には透一人。店長はとっくにバックヤードで寝ている。
自動ドアが開いて、若い女性が入ってきた。
透は品出しの手を止めた。
背が高い。百七十はある。黒いダウンジャケットにジーンズ。腰まで届く黒髪を、まっすぐ下ろしている。切れ長の目、整った鼻筋。夜中のコンビニの蛍光灯の下だというのに、そこだけ空気が冷たく澄んで見えた。
――美人。いや、それだけじゃないな。
背筋がまっすぐで、足取りに迷いがない。深夜のコンビニに一人で来る客の、どこか眠たげな緩さが、彼女にはまるでなかった。
彼女はまっすぐスイーツの冷蔵棚へ向かい、カスタードプリンを三つ、カゴに入れた。無表情のまま。それから一瞬だけ棚の前で止まり、四つ目に手を伸ばしかけて、やめた。眉ひとつ動かさない。けれど、カゴを持つ指先がほんの少しだけ名残惜しそうだった。
――覗きの対象として、満点だ。
透は心の中で拍手を送った。
レジに来た彼女は、カゴを置いてから、そこで初めて透に気づいたように瞬きをした。
「……店員さん、おったんですね」
「はい」
「失礼しました。気配がなかったけん」
透は慣れている。にこりともせずにバーコードを読み取る。
「プリン三点で、四百五十九円です」
「袋はご利用ですか」
「……いえ。持っとります」
彼女はポケットから小さく畳んだ黒いエコバッグを取り出し、プリンを手早く詰めて、口をくるりと巻いた。中身が外からまったく見えないように。その手つきだけが、妙に素早かった。
――隠したいんだ、プリン。
透の口元がわずかに緩んだ、そのときだった。
自動ドアが開き、若い男が入ってきた。派手なジャンパーに、酒の匂い。二十代半ばくらいだろう。男は店内を見回し、レジの前の彼女に目を留めると、にやにや笑いながら近づいてきた。
「お姉さん、一人? こげな時間に危なかよ。俺、車やけん、送っちゃろうか」
――酒臭い息で、飲酒運転の予告。役満だな。
彼女は振り返らなかった。千円札をトレーに置き、黙って透の手元を見ている。
「なあって。無視せんでよかやん」
男の手が、彼女の腕をつかんだ。
次の瞬間、男は床に転がっていた。
透にも、何が起きたのかほとんど見えなかった。彼女は男の手首を軽く取り、くるりと返しただけに見えた。男は自分の体重で勝手に倒れ、目を白黒させている。
彼女は床の男を見下ろして、静かに言った。
「触らんでください」
男は顔を赤くして何か言いかけたが、彼女と目が合うと口をつぐみ、這うようにして店を出ていった。
彼女は小さく息を吐き、ほんの少しだけ、気まずそうに目を伏せた。
「……騒がせてしもうて、すみません」
「いえ。スカッとしました」
本心だった。彼女は一瞬だけ透を見た。何か言いかけて、やめる。代わりに小さく会釈した。
透がお釣りを数え始めた、そのときだ。
足元から、低い音が這い上がってきた。
ごう、と。地面の底で巨大な何かが寝返りを打ったような、長い地鳴り。棚の商品がかたかたと震え、蛍光灯がまたたく。
地震じゃない、と透は思った。揺れより先に、音が来た。海の方からだ。
彼女も顔を上げていた。表情が、すっと変わる。さっきまでの柔らかさが消え、刃物のように研ぎ澄まされていく。
照明が落ちた。
非常灯だけが緑色に灯る暗い店内で、透はガラスの外を見た。
霧だった。
乳白色の、濃い霧が、通りの向こうから音もなく押し寄せてくる。街灯が一つずつ呑み込まれ、向かいのマンションの輪郭が溶けていく。十一月の夜に、こんな霧が出るはずがない。
携帯を見る。圏外。
遠くで、悲鳴が上がった。
一つではない。二つ、三つ。犬が狂ったように吠え、すぐに途切れる。そして、子どもの泣き声。
近い。
彼女が動いた。
ポケットからヘアゴムを取り出し、腰まである黒髪を、手早く高い位置でひとつに結び上げる。ほんの二秒。それだけで、彼女はまるで別人になった。
ポニーテールが揺れる。
「お釣りは、よかです」
それだけ言って、彼女は霧の中へ走り出した。素手のまま。迷いのない足取りで。
停電で止まった自動ドアは、彼女が手でこじ開けたまま、開いている。そこから、乳白の霧が店の中へゆっくりと流れ込んでくる。
カウンターの上に、中身の見えない袋と、数えかけのお釣りが残っていた。
透はしばらく、それを見つめていた。
――関係ない。
頭ではそう思う。外は何が起きているかわからない。自分はただのバイトだ。
でも。
「……渡しそびれただけだから」
誰に言うでもなく呟いて、透はエコバッグをつかんだ。
透は、開いたままの自動ドアから、外へ出た。
息を、細く長く吐く。
吐ききったところで、止める。
心臓の音が、ゆっくりと沈んでいく。一分間に六十、四十、二十――。祖父との「我慢比べ」で覚えた、子どもの遊びだ。体の熱が皮膚の内側に引っ込み、透という存在が、夜の空気に溶けていく。
霧の中へ、足音もなく踏み出した。
◇
声のする方へ、五十メートル。
霧の向こうに、人影が見えた。
路地の行き止まり。ブロック塀を背に、若い母親が幼い女の子を抱きしめてうずくまっている。その前に、さっきの彼女が立っていた。
そして、彼女の正面に。
透は、それを見た。
犬ほどの大きさの、何かだった。灰色の皮膚。四本の脚。異様に長い首。頭には、目がなかった。目のあるべき場所はつるりとした皮膚で覆われ、その代わりに、裂けた口の周りで細い触手のようなものがひくひくと震えている。
三体。
怪物たちは、鼻先を揺らしながら、ゆっくりと距離を詰めていく。
母親が嗚咽を漏らした。腕の中の女の子が、ひっ、ひっ、と泣きじゃくる。そのたびに、三体の首が一斉にそちらを向く。
「……大丈夫やけん」
彼女が、低く言った。さっきまでより、ずっと柔らかい声だった。
「お姉ちゃんがおるけん。泣かんでよか」
女の子の泣き声が、少しだけ小さくなる。
彼女は軽く腰を落とし、両手を前に構えた。正面の一体から目を離さないまま、背中で母親に言う。
「私が引きつけるけん。合図したら、右の路地へ走って。振り返らんで」
「で、でも、あなたは」
「よかけん」
彼女の肩が、わずかに沈む。踏み込むつもりだ、と透にはわかった。素手で、得体の知れない怪物三体に。自分を囮にして、見ず知らずの親子を逃がすために。
――この人、本気だ。
透は塀の影から、音もなく回り込んでいた。
怪物たちの背後へ。
一メートル。透のすぐ目の前を、灰色の尻尾が揺れている。怪物は透の存在にまったく気づいていない。触手は前方の、彼女と親子の方へ向いている。
――見えてない、のか?
目がないのだから、目で見ているはずがない。音か、熱か、それとも別の何かか。わからない。ただ少なくとも、すぐ後ろに立つ透には、気づいていない。
真ん中の一体が、身を低く沈めた。跳ぶ前の溜めだ。
透は、足元に転がっていた空き缶を拾い上げた。
考えるより先に、手首が動いた。
祖父の庭で、何千回と繰り返した遊び。鬼の背後に回り込み、鬼の気を逸らす小石を放る。音を立てる場所は、自分から一番遠く、相手の真後ろ――。
空き缶が、霧の奥の路地へ、低い弧を描いて飛んだ。
怪物が地面を蹴ったのと、缶がアスファルトに落ちたのは、ほとんど同時だった。からん、と乾いた音。跳びかかった怪物は空中で身をよじり、彼女の肩先をかすめて着地すると、そのまま音の方へ駆け出した。
彼女が息を呑む。
残りの二体も、一斉にそちらへ首を向けた。けれど、まだ迷っている。触手の半分は、まだ親子の泣き声の方を探っていた。
手元にあるのは、提げてきたエコバッグだけだ。透は一瞬だけ迷い、中からプリンを一つ取り出した。――ごめん。それを、空き缶よりもさらに遠く、霧の奥へ放る。
ばん、と、何か硬いものに当たる鈍い音が、霧の奥で響いた。乗り捨てられた車にでも当たったのだろう。
二体の首が、同時にそちらを向いた。次の瞬間、二体は音の方へ弾かれたように駆け出し、霧の中へ消えた。
静寂。
彼女は、構えたまま固まっていた。目の前まで迫っていた怪物が消えた霧の奥を、ただ見つめている。そして、絞り出すように呟いた。
「……何が、起きたと?」
答える者はいない。透は彼女の二メートル後ろに立っていたが、彼女は一度も振り返らなかった。
彼女は小さく首を振り、母親に駆け寄った。
「立てますか。近くに、シャッターのあるコンビニがあるけん」
◇
透は先回りして店に戻り、何食わぬ顔でカウンターの内側に立った。息を吐き、心臓の音を元に戻す。手のひらが、まだ少し震えていた。
――今のは、何だったんだ。
あれが何なのか、透にはまだわからなかった。ただ、あいつらにも透は見えなかった。それだけは、はっきりとわかった。
入口の、開いたままの自動ドアから、彼女が母親と女の子を連れて入ってきた。女の子は母親の胸に顔をうずめている。
彼女は店内を見回し、カウンターで目を止めた。
「店員さん! ……あ、おった」
「はい」
「私は自衛官です。この人たちをお願いします。シャッターを下ろして、朝まで開けんで。物音を立てんように」
「あなたは」
「部隊に合流します。必ず、救助を連れてくるけん」
彼女は母親の肩に手を置き、女の子の頭をそっと撫でた。一瞬だけ、口元が緩んだように見えた。
「よう頑張ったね」
それから彼女は踵を返し、ポニーテールをなびかせて霧の中へ消えていった。
一度も、透の方を振り返らずに。
透は、カウンターの上に置き直したプリンの袋とお釣りを見下ろした。
「……また渡しそびれた」
そのとき、店の外で、何かが地面を踏む音がした。湿った、爪の擦れる足音。
透は息を止め、開いたままの入口からそっと外へ出た。
霧の中に、何かがいた。
灰色の怪物が一体、通りをこちらへ歩いてくる。透は心臓の音を沈め、店の壁際で動きを止めた。
怪物は、透の鼻先一メートルを、何事もなかったように素通りしていった。触手は一度も、透の方を向かなかった。
遠ざかっていく灰色の背中を見送りながら、透は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、見えてないな」
乳白色の霧の中で、胸元の鈴は、一度も鳴らなかった。
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