第40話 送り出す
一日一話、朝七時公開です。
十二月二十八日。朝。
縁側の端で、千夜が携帯を耳に当てていた。
透は、庭で車に荷物を積んでいた。聞くつもりはなかった。けれど、千夜の声はいつもより硬かった。
「……はい。見極めは、終わりました。……いいえ、伝書の写しは、持って帰りません」
電話の向こうで、低い声が何かを言った。千夜の肩が、びくりと揺れた。
「……わかってます。忍びは、道具じゃ。何べんも聞きました」
千夜はそこで一度、息を吸った。
「でも、お祖父ちゃん。あたし、道具じゃないです」
電話の向こうが、静かになった。
「千夜は、霧島透に同行します。……望月の命令じゃなくて、あたしが決めたことです」
千夜は、電話を切った。
それから、しばらく携帯を見つめていた。手が、少しだけ震えていた。
透は、荷物を積む手を止めずに言った。
「……いいの」
「聞いてたの」
「聞こえました」
千夜は縁側から飛び下りて、透の背中にぼすんと額をぶつけてきた。
「いいの。決めたから」
背中で、千夜の声がくぐもっていた。
「それに、透くんを見張る人がいないと、また覗くでしょ」
「……否定はしないです」
「そこは否定してよ!」
◇
祖母は囲炉裏の前で、美雪さんに帳面の写しを手渡していた。
十日かけて解いた暗号の、すべてを書き写したものだった。
「持っていき。あんたの方が、使い道わかるやろ」
美雪さんは、両手で帳面を受け取った。それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ず、役に立てます」
祖母は美雪さんの手を、皺だらけの両手で包んだ。
「あんたらが開けた穴やろ」
美雪さんの肩が、強張った。
「ほんなら、あんたらが閉じたらええ。四百八十年前は、この山のもんが命がけで閉じた。……今度は、開けたもんが閉じる番や」
美雪さんは、顔を上げられなかった。帳面の上に、ぽたぽたと涙が落ちていた。
祖母は何も言わずに、その背中をさすった。
◇
帳面を抱いたまま、美雪さんが縁側の透のところへ来た。目は、まだ少し赤かった。
「霧島さん。楔のことで、相談があります」
「設備の話ですか」
「はい。鳴石は、たぶん、叩くと巣核の鼓動と同じ高さで鳴る結晶です。でも、削り方が雑だと、ひびが入って、音が濁ってしまうと思います。音を壊さずに楔の先の形にするには、かなり精密に削らないといけません」
美雪さんは、帳面の写しを開いた。楔は鳴石を以て作る。それ以上のことは、何も書かれていなかった。
「手で削れる職人さんが見つかればいいんですけど、あの霧の中では、難しいと思います。……精密な加工機械を探した方が、まだ望みがありそうです」
「外の工場に頼むのは」
「私が封鎖区域の外で動けば、見つかるかもしれません。見つかれば、調査団に引き渡されます。結晶も、たぶん取り上げられる。……福岡の中で、機械のある場所を探すしかないと思います」
透は少し考えてから、携帯を取り出した。
「……父に、調べてもらいます」
呼び出し音が一回鳴り終わる前に、父が出た。
「透か」
「うん。父さん、ちょっと調べてほしいことがある」
透が用件を話すと、電話の向こうで父は少し黙った。
「……わかった。調べたら、送る」
それだけ言って、父は電話を切った。
◇
母は、庭の柿の木の下に立っていた。
透が近づくと、母は振り向かずに言った。
「もう、行くんか」
「うん」
「そうか」
母は、柿の木の枝を見上げていた。その枝には、まだ修行で吊るした丸太の縄の跡が残っていた。
「透」
「なに」
「あんた、避難所で『影法師』て呼ばれとったらしいな」
「……うん」
「そのころのあんたには、ちょっと名前負けやったと思うで。あんた、ここに来たとき、隠形が雑になっとった。消えよう、消えよう、て思うとった」
「……うん」
「今は、ちゃんと、そこにおるだけになっとる。間違いなく影法師や」
母は、ようやく透の方を向いた。いつもの、にこにこした顔だった。けれど、目だけが少しだけ違っていた。
「行っといで。あんたは、隠れるのが上手いだけの子やない」
透は、何も言えなかった。
母は透の頭に手を伸ばして、子どものころのように、くしゃくしゃと撫でた。二十二歳の頭を。
「……母さん」
「なに」
「最後に、一回だけ、本気の隠形、見せてよ」
母は、少し考えるふりをした。
「あかん」
「なんで」
「見せたら、あんた、真似して覗きに使うやろ」
透は、言い返せなかった。
◇
朝倉さんは車の横で、ポニーテールを結び直していた。
母が、そこへ歩いていった。
「葵さん」
朝倉さんは振り向いて、背筋を伸ばした。
「お世話に、なりました」
「こちらこそ。……あの子のこと、頼むで」
母はそれだけ言って、朝倉さんの顔をじっと見た。
朝倉さんは一瞬だけ、目を伏せた。それから、まっすぐに母を見返した。
「背中は、私が守りますけん」
母は、少しだけ目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「……そうか。ほな、安心や」
「この分やと、孫の顔も、そのうち見せてもらえそうやなあ」
朝倉さんの顔が、耳まで一気に赤くなった。
「な、なん言いようとですか……」
母は朝倉さんの肩を、ぽんぽんと二度叩いた。そして、声をひそめて付け加えた。
「覗いたら、撃ってええからな」
「はい」
朝倉さんは、一秒も迷わなかった。
◇
出発の前に、ちょっとした揉め事があった。
宮原三佐の軽自動車は、四人乗りだ。運転は朝倉さん。問題は、残りの三つの席だった。
「透くんは、あたしの隣ね」
千夜が、後ろの席の扉を開けて言った。
「助手席の方が、道案内できるんですけど」
「道案内は、カーナビがするでしょ」
結局、美雪さんの提案で透は後ろの席の真ん中に座ることになった。右に千夜、左に美雪さん。助手席には、荷物が積まれた。
「千夜さんは、隣。朝倉さんは、ルームミラーで真正面。……これで、公平です」
美雪さんは眼鏡の位置を直して、満足そうに言った。
運転席の朝倉さんは、何も言わなかった。
ただ、エンジンをかけると、いつもより少しだけ強く、アクセルを踏んだ。
車が、がくんと前に出た。後ろの三人が、そろってつんのめった。
◇
車は、県道を下っていった。
透は、振り返らなかった。振り返っても、たぶん誰も見えないのはわかっていた。あの家の人たちは、見送るときも、見えないところから見送る。
ポケットの中で、ローズが置いていった地図がかさりと鳴った。赤い円。その内側の小さな灰色の四角。
胸ポケットの上から、ひなたの飴を触った。
隣で、千夜が透の袖を指でつまんでいた。反対側では、美雪さんが帳面の写しを抱いたまま、もう眠りかけていた。
県境を越えたあたりで、透の携帯が震えた。父からのメッセージだった。
長かった。会社の取引先に片っ端から聞いたこと。大学が公開している設備の一覧。機械を納めた業者の記録。調べた順番どおりに、律儀に並んでいた。その最後に、一行。
「福岡で結晶を精密に削れる機械があるのは、ここだけらしい。お前の大学の、理学部の研究棟だ。……知らなかったのか」
透は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
横から覗き込んだ千夜が、言った。
「……透くんの大学じゃん。三年も通ってて、知らなかったの」
「学部が違うんで」
「覗きはしてたくせに」
「理学部には、女湯がないんで」
ルームミラーの中で、朝倉さんと目が合った。
朝倉さんは、すぐに前を向いた。
「……霧島くん」
「はい」
「最低やね」
車は山を下りて、西へ向かう国道に入った。
四人は再び、関門へ向かっていた。
あの霧の向こうへ。
次回予告 第五部「四人の旅」
伊賀で手に入れたのは、四百八十年前の答えだった。
霧を閉じる方法は、ある。ただし、それを形にできる場所は、霧の中にしかない。
透、朝倉さん、美雪さん。そして、甲賀の少女・千夜。
四人は、もう一度、関門の向こうの霧へ戻る。
封鎖された海峡の下の暗いトンネル。
帰りを待っていた避難所の人たち。
そして、霧の奥で目を覚ました、熱を見る怪物。
息を殺しても、心臓を沈めても、隠しきれないものがある。
誰にも見つからなかった男の隠形が、初めて通じない相手。
霧の底で、何かが脈を打っている。
ここから、門を閉じるための戦いが始まる。




