第39話 目なきものの記録
一日一話、朝七時公開です。
十二月二十三日。夜。
囲炉裏の前に、全員が集まっていた。
祖母は膝の上に巻物と、ぶ厚い帳面を広げていた。帳面には、十日分の書きつけが細かい字でびっしりと並んでいる。暗号の記号の一つひとつに、仮名と漢字が振られていた。
「読めたで」
祖母はそれだけ言って、老眼鏡をかけ直した。
「全部は、まだや。けど、肝心なとこは読めた」
透は、囲炉裏の向かいに座った。隣に朝倉さん。反対側に、美雪さんと千夜。母は、少し離れた柱にもたれていた。
祖母は帳面の最初の頁を指でなぞりながら、ゆっくりと読み始めた。
◇
「天文の頃、伊賀の奥山に、隙間開く」
祖母の声は低く、平らだった。
「常の隙間は、瞬く間に閉づ。然れど此の度の隙間、大きくして閉ぢず。霧、谷を埋め、目なきもの出でて、里人を喰らふ」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
「天文ちゅうたら、戦国の頃や。四百八十年くらい前やな」
祖母は、帳面から目を上げずに言った。
「隙間ゆうのは、この山の言い伝えや。山のどこかに、時々向こう側への穴が開く。たいていは、指一本も通らん小さい穴で、すぐ閉じる。せやけど、この時は、大きいのが開いて、いつまでたっても閉じんかった」
美雪さんが、身を乗り出していた。
「……門です。小さな門は、昔から、あちこちで開いていたんです。私たちの研究でも、それはわかっていました。でも、記録が残っているなんて」
祖母は、頁をめくった。
「目なきものは、息を聴き、鼓を聴き、熱を聴く。動きて、温かく、息して、鼓打つものを喰らふ。之に当たらざるもの、石と同じ。……そこで、霧隠の者、息を殺して目なきものに近づき、之を討つ」
「霧隠……」
「霧島の、昔の呼び名や」
祖母は帳面の一行を、指でとんとんと叩いた。
「息を殺し、鼓を沈め、熱を内に引く。之、隠形なり。……忍びの技やない。もともとは、山の隙間から来るもんに気づかれんと近づいて、仕留めるための技やったんや。それが、あとから戦にも使われるようになった」
透は、黙って聞いていた。
祖父の遊び。かくれんぼ。我慢比べ。猫ごっこ。夜の散歩。
あれは全部、四百八十年前、霧の谷で目なきものを討つために生まれた技だった。
◇
「次が、影縫いや」
祖母は、頁をめくった。
「里人を目なきものより護る術なり。己の息を以て人の息を縫ひ、己の鼓を以て人の鼓を縫ふ。縫はれたる者、隠るる者に同じ」
祖母はそこで一度、言葉を切った。
「縫いとむるは、互いの信」
囲炉裏の周りが、静かになった。
「……うん、全然わからん」
すぱん、と頭をはたかれた。いつの間にか、母が透の真後ろに座っていた。
「ちゃんと聞き。……ええか。これは、目なきものから里のもんを守るための技や。自分の息で相手の息を、自分の心臓で相手の心臓を、縫いとめる。縫いとめられたもんは、隠れとるもんと同じになる。……ただし、縫いとめられるんは、お互いを信じとるもん同士だけや」
「そうや」
祖母が小さくうなずいて、帳面の続きを読んだ。
「信なき者は、縫へず。縫ふ者もまた、縫はるる者を信ずべし」
透は、自分の手を見た。
ひなたを抱きしめた夜。泣きじゃくっていた六歳の子が透の胸の音を聞いて、息を合わせてきた。あの子は、透を信じていた。何の理由もなく、ただ、信じていた。
松尾と、大庭さんと、ひなた。縛られた三人が、透の声に合わせて息を沈めた。あのときも、そうだった。
――信じてもらえたから、縫えたのか。
「……透」
母が、透の後ろから言った。
「あんた、それ、もう何べんか使うとるやろ」
「……二回」
「ほうか」
母は、それ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めて透を見ていた。
隣で、朝倉さんが膝の上で手を握りしめていた。
◇
「ほんで、最後や。隙間を、どうやって閉じたか」
祖母は、帳面の最後の頁を開いた。
「隙間の奥に、脈打つ石あり。目なきもの、皆、其の脈に従ふ。脈止まらば、霧晴れ、目なきもの動かず」
美雪さんの目が、大きく見開かれた。
「……巣核です」
「其の脈に逆らふ拍を以て、楔を打つ。楔は鳴石を以て作る。生ける者の手にて握り、六十を数ふる間、離すべからず」
「六十」
「六十数える間、手を離したらあかん、ちゅうことや。ほんで、脈が止まって、隙間が閉じた。……握っとった者は、髪が真っ白になって帰ってきた、て書いてある」
祖母は、帳面を閉じた。
「それからや。霧島の家が、この山の隙間を見張る家になったんは。……けど、書きつけには、人の通れるような隙間は、一つも出てこん。四百八十年、一つもや」
◇
美雪さんは、しばらく黙っていた。
それから、震える手で自分のノートを開いた。
「……巣核には、鼓動があります。霧の乱れはその鼓動に合わせて、強くなったり弱くなったりする。回収隊の通信機は、その弱まる一瞬を使っています。……私たちは、その鼓動の周期を研究所で記録していました」
美雪さんは、ノートに何かを書き始めた。
「その鼓動と、逆の波を、巣核の中心に流し込めば。逆位相の共鳴で、鼓動を打ち消せるかもしれない。四百八十年前の人たちは、それを『逆らふ拍』と呼んだ」
「楔は」
透が聞いた。
「……たぶん、金属の杭のようなものです。鳴石というのは、研究所で巣核のまわりから見つかった、叩くと鳴る結晶のことかもしれません。それを先端につけて、巣核に打ち込む。……生ける者の手、というのは、まだわかりません。握る人間の体の微弱な電気を、結晶が拾って動くのだとしたら、筋は通ります。でも、確かめてみないと」
美雪さんは、ノートから顔を上げた。
「共鳴の、楔。……共鳴楔」
囲炉裏の火が、その顔を照らしていた。福岡の浜に流れ着いてから、一度も見たことのない顔だった。泣き出しそうで、それでいて目だけが燃えていた。
「作れると?」
朝倉さんが聞いた。
「設計は、できます。でも、結晶と、それを加工する設備が要る。ここには、ありません」
「どこにあると?」
美雪さんは少し考えてから、首を振った。
「……探します。必ず」
◇
祖母は帳面を閉じかけて、手を止めた。
「ああ、それとな。巻物のいちばん最後に、もう一つ書いてあったわ」
「もう一つ?」
「同じ暗号で、書き足してある。字が新しい。源さんの字や」
祖母は、帳面の裏表紙の内側を開いた。そこに、短い書きつけが二行あった。
祖母は老眼鏡を押し上げて、一行目を読んだ。
「透へ。この巻を読む頃には、お前も女湯くらいは覗いとるやろ。ほどほどにせえ」
囲炉裏の周りの空気が、ぴたりと止まった。
千夜が、ぶっ、と噴き出した。
朝倉さんが、ゆっくりと透の方を向いた。
「……おじいさんの読み、当たっとるやん」
「……なんか嫌ですね。死んだ人に注意されるの」
母が柱の陰で、肩を震わせていた。
祖母は何事もなかったように、二行目を読んだ。
「影は己のためにあらず。お前の影を、誰かのために使え」
透は、何も言えなかった。
祖父の顔を、思い出した。しわだらけの日に焼けた顔。一度も犬に吠えられたことがないのが、自慢だった。遊びだと言いながら、透にかくれんぼを教え続けた。
最後の最後まで、遊びのふりをして。
「……じいちゃん、ずるいな。それにしても、四百八十年分の家宝に、孫の覗きの注意、書くかなあ」
透は、小さく言った。
祖母が、帳面を閉じた。
「源さんは、ずっとそういう人やったで」
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや★での評価をいただけると励みになります。




