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第38話 母と千夜

一日一話、朝七時公開です。

十二月二十一日。朝。

望月千夜は、霧島家の庭の真ん中に立っていた。

向かいには、透の母、霧島静がいる。割烹着(かっぽうぎ)の上から、綿入れの半纏を羽織っていた。手には、何も持っていない。

「ほんまに、やるん?」

「お願いします」

千夜は、頭を下げた。

伊賀の霧島。甲賀の望月。戦国のころから、そう並び称されてきた家だ。その当代と一度、手を合わせてみたかった。三日前、自分は霧島の息子に半日も気づけなかった。その母親が、どれほどのものなのか。

縁側には、透と、朝倉さんと、美雪さんが並んで座っていた。

「千夜ちゃん、やめといた方が……」

透が、小声で言った。

「透くんは黙ってて」

千夜は、構えた。

体を低く沈める。表情が、自分の顔から抜け落ちていくのがわかる。呼吸を、庭を渡る風の速さに合わせる。

静は、構えなかった。

ただ、にこにこと笑って、そこに立っていた。

「ほな、どうぞ」

千夜は、地面を蹴った。

◇

気がつくと、千夜は空を見上げていた。

背中に、霜の溶けかけた土の冷たさがあった。

何が起きたのか、わからなかった。自分は、確かに踏み込んだ。静の右の肩口へ、最短の距離で。その瞬間、静の姿が目の前からふっと消えた。

いや。消えたのではない。

最初から、そこにいなかったのだ。

千夜が見ていたのは、静の残り香のようなものだった。息の気配。体温の名残り。それが、まだ同じ場所に立っているように見えていただけで、本人は、千夜が地面を蹴るより前にもう横へ半歩ずれていた。

「大丈夫?」

静が千夜の顔の上から、のぞき込んでいた。

「……今の、何ですか」

「何やろなあ」

静は、千夜に手を差し伸べた。

「玄斎さんに、よう似とるわ。踏み込みが、まっすぐで、きれいや」

千夜はその手を取らずに、自分で起き上がった。

顔が、熱かった。

◇

昼過ぎ、千夜は一人で山の湧き水のそばに座っていた。

三日前、透を見つけた場所だった。

膝を抱えて、水の流れを見ていた。何も考えたくなかった。

背後で、枯れ葉が鳴った。わざと鳴らした音だった。

振り向くと、朝倉さんが立っていた。両手に、湯気の立つ湯呑みを一つずつ持っている。

「……何しに来たの」

「お茶。おばあさんが、持っていけって」

朝倉さんが千夜の隣に腰を下ろして、湯呑みを一つ差し出すと、千夜は黙って受け取った。

しばらく、二人で水の音を聞いていた。

「……あたし、何もできなかった」

千夜は、湯呑みを見つめたまま言った。

「透くんにも、半日気づけなかった。お母さんには、一瞬で転がされた。望月の家で、ずっと一番だったのに。ここに来てから、負けてばっかり」

朝倉さんは、何も言わなかった。

「朝倉さんは、悔しくないの。透くんのお母さん、朝倉さんの真後ろに立ってても、気づかなかったんでしょ」

「悔しいよ」

朝倉さんは、あっさりと言った。

「私も、毎日負けとう。あの人の息子に」

千夜は、顔を上げた。

「霧島くんが隠れたら、私には全然わからん。今後もわからんと思う。でもあの人は、ちゃんと帰ってきてくれる。」

朝倉さんは、湯呑みのお茶を一口飲んだ。

「私は、それで十分やけん」

千夜は、朝倉さんの横顔を見た。表情は、何も変わっていなかった。冷たくて、きれいな横顔だった。

けれど、湯呑みを持つ指先だけが少しだけ赤かった。寒さのせいなのか、それとも。

――ずるいなあ、この人。

千夜は、お茶を一気に飲み干した。熱くて、むせた。

朝倉さんが千夜の背中を、とんとん、と叩いた。

◇

その夜。

囲炉裏の火が落ちて家の中が静かになったころ、千夜は仏間の前を通りかかった。

障子が、少しだけ開いていた。

中に、静がいた。仏壇の前に座って、線香の煙を見上げている。

千夜は、通り過ぎようとした。

「千夜ちゃん」

障子の向こうから、声がした。振り向きもしないで。

「ちょっと、おいで」

千夜は、仏間に入った。

仏壇に、写真が二枚あった。郵便配達の帽子をかぶった、日に焼けたおじいさん。それから、坊主頭の、小さな男の子。

「……この子」

「朔。透の兄ちゃんや」

静は、写真を見上げたまま言った。

「十歳のとき、この山で、おらんようになった。夏の夕方に、一人で修行に入って、それっきり。崖の下で、靴が片っぽだけ見つかってな。体は、見つからへんかった」

千夜は、何も言えなかった。

「透は、まだ二つやった。何も覚えとらん。あの子にとっては、仏壇の写真の子や」

静は、少しだけ笑った。

「あの子はな、かくれんぼで、うちにも、うちの父にも、一度も見つからへんかった。十歳で、やで。父は、百年に一人の才や言うて、それはもう、厳しゅう鍛えた。朝から晩まで。遊びやなくて、修行として」

線香の煙が、まっすぐに上っていた。

「うちは、それを止めへんかった」

千夜は、静の横顔を見た。昼間、自分を一瞬で転がした人とは思えない、どこにでもいる母親の顔をしていた。

「せやから、透には、遊びとしてしか教えへんかった。かくれんぼ。我慢比べ。猫ごっこ。あの子が、技を道具やと思わんように。……まあ、そのせいで、覗きなんかに使うとるんやけどな」

千夜は、思わず小さく笑ってしまった。

静も、笑った。

それから、千夜の方を向いた。

「千夜ちゃん。あんた、家で、道具やって言われとるやろ」

千夜の胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

「……忍びは、道具じゃ、って」

「玄斎さんらしいわ」

静は千夜の頭に、そっと手を置いた。

「あんたは、道具やない。透も、朔もや。……うちが言うても、説得力ないかもしれんけどな」

千夜は、うつむいた。

畳の上に、ぽたりと何かが落ちた。

◇

仏間を出ると、囲炉裏の前で透が丸くなって眠っていた。

半纏を頭までかぶって、子どもみたいな寝顔だった。

千夜はその横にしゃがみ込んで、寝顔をのぞき込んだ。

――透くんの家にも、いなくなった人がいるんだ。

透は、それを知っている。けれど、覚えていない。仏壇の写真の子として、手を合わせているだけだ。

透の半纏の端が、ずり落ちていた。千夜は、それをそっと肩まで引き上げた。

「……おやすみ、透くん」

透は、目を覚まさなかった。

それが、少しだけ嬉しかった。

お読みいただきありがとうございます。

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