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第37話 伊賀に来た薔薇

一日一話、朝七時公開です。

十二月二十日。昼。

最初に気づいたのは、千夜だった。

縁側で、透の剥いた蜜柑(みかん)を食べていた千夜が、ふいに手を止めた。顔から、表情が消えた。

「……誰か来る。県道の方。一人」

「村の人じゃなくて?」

「足音が違う。体重の乗せ方が、訓練された人の歩き方」

千夜は、縁側から音もなく下りた。

朝倉さんが、立ち上がった。小銃を手に取り、弾倉を差し込む。宮原三佐の紙袋に入っていた、新しい弾倉だった。

透は、県道の方を見た。

田んぼのあぜ道を、背の高い人影が歩いてきた。大きなリュックを背負い、ダウンジャケットの前を開けている。冬の日差しの中で、ブロンドの髪が光っていた。

人影はこちらに気づくと、大きく手を振った。

「影法師くーん! 来たよー!」

◇

ローズは、庭の入り口で立ち止まった。

朝倉さんの小銃の銃口が、まっすぐ彼女の胸を向いていた。千夜はいつのまにかローズの背後に回り、棒手裏剣を指の間に挟んでいた。

ローズは、両手をゆっくりと上げた。

「撃たんで。丸腰やけん」

「信用できん」

「やろうねえ」

ローズは背後の千夜を、肩越しにちらりと見た。

「調べてよかよ。そこのちっちゃい子」

「ちっちゃくない」

千夜はむっとした顔で、ローズの体を上から下まで手早く探った。ジャケットのポケット。袖。腰。ブーツの中。

「……どこ触っとうと」

「武器探してるの!」

「くすぐったかあ」

千夜は耳を赤くしながら最後まで調べ終えて、朝倉さんの方を向いた。

「……ほんとに、何も持ってない」

朝倉さんは、銃口を下げなかった。

「どうやって、ここがわかったと」

「あたしらの仕事、なめたらいかんよ。影法師くんの名前さえわかれば、あとは簡単。霧島透、大阪出身、お父さんは婿養子で、霧島はお母さんの方の名字。その実家が、三重の伊賀。……ちゃんと調べてきたと」

ローズは透の方を見て、にっと笑った。

「それに、ひなたちゃんが言いよったよ。お兄ちゃんは、おばあちゃんちに行ったって」

「……霧の中から、どうやって」

「海から。うちの船で。ちょっと、休暇もらってきた」

ローズは、肩をすくめた。

「ていうか、勝手に来た」

◇

結局、ローズは縁側に座ることを許された。

朝倉さんは小銃を膝に置いたまま、二メートル離れて座っている。千夜は、ローズの真後ろの柱の陰に立っていた。母は、何も言わずにお茶を出した。

「ありがとう、お母さん。……ばり美人やん」

「あらまあ」

母は、にこにこと笑って台所へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、ローズが言った。

「……あの人、今、あたしの手の位置と、重心と、逃げ道、全部見とったね」

透は、何も言わなかった。

千夜が柱の陰から、ローズの顔をのぞき込んだ。

「ねえ。あんた、透くんの何?」

「影法師くんの? うーん。狙っとる女?」

「は?」

千夜の声が、一段低くなった。

「言っとくけど、あたし透くんを見つけたからね」

「へえ。いつ?」

「二日前」

ローズはお茶を一口飲んで、首をかしげた。

「あたし、十二月一日に見つけたっちゃけど」

千夜が、固まった。

「白い息でね。庇(ひさし)の上で、ふわーって。葵ちゃんたちのお風呂、覗きよったとこを」

縁側の空気が、凍った。

朝倉さんが、ゆっくりと透の方を向いた。

「……十二月一日って」

「……」

「女子会の、夜」

「見張りです」

「廊下で震えとった、夜」

「冷え込みが、厳しかったんで」

朝倉さんは、何も言わなかった。小銃の安全装置に、親指がかかった。

千夜は柱の陰で、膝から崩れ落ちていた。

「……あたし、二番目……?」

「ほんなら、一番はあたしやね」

ローズは、楽しそうに言った。

◇

ローズの顔から笑みが消えたのは、お茶を飲み終えてからだった。

「……本題」

彼女はリュックから、折りたたんだ紙を一枚取り出した。

「浄化作戦の範囲、見たくない?」

縁側の板の上に、紙が広げられた。

衛星写真をもとにした地図だった。福岡県の北半分と、玄界灘(げんかいなだ)。その海の中の小さな島に、黒い点が一つ打たれている。鐘ヶ島(かねがしま)。

「衛星で見るとね、霧はこの島から湧き出しとると。まわりに広がっていくのが、毎日写っとる」

その点を中心に、赤い線で大きな円が描かれていた。

円は、福岡市を丸ごと飲み込んでいた。北九州市も。香椎も、天神も、名島(なじま)も、呉服町(ごふくまち)も。透が一か月、歩き回ってきた場所のすべてが、赤い線の内側にあった。

「……これ」

透の声が、自分でも驚くほどかすれていた。

「うちの国が、日本の政府に出しとる案。区域の中を、まとめて焼く。門の周りから、群れも、巣根(すね)も、全部」

「中に、まだ人が」

「おる。何万人も」

ローズは、地図の赤い線を指でなぞった。

「日本の政府は、まだ首を縦に振っとらん。でも、うちの国は本気。門が開いたままやと、次はどこに開くかわからんけん。世界中が、怖がっとる」

美雪さんが、離れから出てきていた。地図を見下ろして、唇を噛んでいた。

「……門は、建物でも、生き物でもありません。世界と世界のあいだの、裂け目です。焼くものが、ないんです。地上をいくら焼いても、門が開いている限り、群れはまた向こうから出てきます」

「知っとうよ。あたしも、上にそう言った」

ローズは地図を折りたたんで、透の膝の上に置いた。

「これ、置いていくね」

「……なんで、僕に」

ローズは、少し黙った。

それから、縁側の外の冬の田んぼを見た。

「ひなたちゃん、可愛かよね。……ほかの子たちも」

それだけ言った。

◇

ローズが帰ったのは、日が傾き始めたころだった。

庭の入り口で、彼女は一度だけ振り返った。

「影法師くん。取引の話、まだ終わっとらんけんね」

「終わりました」

「終わっとらん」

それから、朝倉さんの方を見てひらひらと手を振った。

「葵ちゃん、その小銃、そんなに磨いたら、すり減るよ」

朝倉さんは、何も答えなかった。

ローズの背中が、あぜ道の向こうに小さくなっていく。千夜は柱の陰から、それをじっと見送っていた。

「……あの人、嘘、ついてなかった」

「わかるの」

「心臓の音、ずっと同じだった。地図の話してるときも、子どもの話してるときも」

千夜は、少しだけ眉を寄せた。

「でも、体を調べたとき、手が氷みたいに冷たかった。……心臓はごまかせても、手はごまかせない。あの人、ほんとは悔しかったんだよ」

◇

その夜、透は囲炉裏の明かりで、もう一度地図を広げた。

赤い線の内側に、香椎がある。避難所のある中学校は、地図の上では小さな灰色の四角にすぎなかった。

ひなたがいる。大庭さんがいる。堤(つつみ)先生が、松尾が、由美さんが、古賀さんがいる。

隣に、朝倉さんが座った。

何も言わずに、地図を見下ろしていた。

それから、指先で灰色の四角に、そっと触れた。

「……焼かせん」

透は、頷いた。

囲炉裏の向こうで、祖母が巻物の書きつけから顔を上げた。

「たぶんあと、三日や」

お読みいただきありがとうございます。

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