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第36話 猛攻

一日一話、朝七時公開です。

十二月十九日。朝。

透が目を覚ますと、枕元に千夜が正座していた。

「おはよ、透くん」

「……何してるの」

「見張り」

「誰の」

「透くんの。寝てる間に消えたら困るから」

千夜は、真顔だった。透は、布団を頭までかぶり直した。

「消えないから。寝かせて」

「あと、もう一個あるんだけど」

「なに」

「透くん、あたしのこと好きになってもいいよ?」

布団の中で、透は動きを止めた。

昨日の昼、この子は、僕の頭を踏みつけていたはずだ。

それから一晩で、これだった。

透は、布団から顔だけ出した。

「……気持ちは、嬉しいです」

「ほんと? じゃあ、あたしのこと、なんでも聞いて。教えてあげる」

「じゃあ、遠慮なく。忍者女子がどんな下着を履いてるのか、気になります」

千夜は、きょとんとした顔で透を見た。それから、にやりと笑った。

「見たい?」

「え」

千夜は母に借りた浴衣の胸元を、指でつまんだ。そのまま、ゆっくりと開きかける。白い下着の縁が、ちらりとのぞいた。

透の心臓が、どくん、と跳ねた。

「あ、上がった」

千夜が、うれしそうに言った。

「今、心拍、跳ねたよね?」

そのとき、襖の向こうで咳払いが一つした。

「おほん」

母の声だった。

「朝ごはん、できとるで。……二人とも」

千夜は、ぱっと胸元を合わせた。透は、布団を頭までかぶり直した。

◇

母は、千夜を修行に混ぜることにした。

「ちょうどええわ。透、甲賀の子と組み手しとき」

庭で向かい合った千夜は、さっきまでとは別人だった。

表情が、消えていた。口元から笑みが引き、大きな目から感情の色が抜け落ちる。小柄な体が、低く沈んだ。

――あ、この子、本物だ。

そう思った次の瞬間、透は庭の土に転がっていた。

足を払われたのか、腕を取られたのか、それすらわからなかった。

「一本」

千夜が、上から見下ろしていた。

「透くん、体術は普通だね」

「……隠れる方が専門なんで」

二本目も、三本目も、同じだった。千夜の動きは速く、正確で、無駄がなかった。正面からやり合えば、透は手も足も出なかった。

十本目で、透は作戦を変えた。

組み手が始まった瞬間に、気配を消す。千夜の正面から、半歩だけ横へずれる。息を、庭の竹の葉が揺れる音に重ねる。

千夜の目が一瞬、透を見失った。

その隙に、透は千夜の背中に回り、肩を指先でとん、と叩いた。

「……一本」

千夜が、ゆっくりと振り向いた。

頬が、真っ赤になっていた。

「……今の、もう一回やって」

「え」

「もう一回! 今の、全然わかんなかった。すご。……すご」

千夜は透の両手を握って、ぶんぶんと振った。

縁側で見ていた朝倉さんが、湯呑みを置いた。かつん、と。昨日の夜より、もう少しだけ大きな音だった。

◇

昼は、千夜が台所に立った。

「料理、できるんですか」

「できるよ。忍びは、一人で何でもできないとだめだから」

千夜が作ったのは、鯖(さば)の味噌煮と、ほうれん草のおひたしと、きんぴらごぼうだった。どれも、驚くほどきちんとしていた。祖母が一口食べて、「ほう」と言った。

「透くんは、何が得意?」

「だし巻き卵、くらいです。祖父に教わったんで」

「作って」

「今?」

「今」

透は、台所に立った。卵を割り、出汁を合わせ、四角い鍋で少しずつ巻いていく。祖父に教わったとおりに。

皿に乗せて出すと、千夜は一切れ口に入れて、そのまま動かなくなった。

「……どうしたの」

千夜は箸を持ったまま、少しだけうつむいていた。

「……おいしい」

小さな声だった。

「うちね、ご飯、いつも一人で食べてたの。お祖父ちゃんは忙しいし、兄弟子たちは別の部屋だし。お弁当も、教室じゃなくて、屋上で一人で食べてた」

千夜は、だし巻き卵をもう一切れつまんだ。

「誰かが作ってくれたものを、誰かと一緒に食べるの、なんか、久しぶり」

透は、何も言わなかった。

ただ、台所に戻って、もう一本だし巻き卵を焼き始めた。

背中の向こうで、千夜が鼻をすする音がした。

◇

午後、縁側で千夜は朝倉さんの隣に座った。

朝倉さんは、小銃を分解していた。

「ねえ、朝倉さん」

「何」

「朝倉さんって、透くんの何?」

朝倉さんの手が、一瞬だけ止まった。

「……護衛対象の、協力者」

「長いね」

「正確に言うたら、そうなる」

千夜は膝を抱えて、朝倉さんの顔を下からのぞき込んだ。

「じゃあ、あたしが透くんのこと好きでも、関係ないよね」

朝倉さんは、答えなかった。ボルトを布で拭く手が、さっきより少しだけ速くなった。

「あ、そうだ。朝倉さんは、透くんのこと、どうやって見つけたの?」

「……見張りをしとったら、向こうから戻ってきた」

「戻ってきた?」

「疲れて、隠形を解いたまま、帰ってきたところを」

千夜は、ぱっと顔を輝かせた。

「じゃあ、見つけてないじゃん」

朝倉さんの手が、止まった。

「隠れてる透くんを見つけたのは、あたしが先だもん。あたしの方が、先に見つけたもん」

千夜はそう言って、にっと笑った。

朝倉さんは、ゆっくりと千夜の方を向いた。表情は、何も変わっていなかった。

「……見つけたって、覗きで興奮したからやろ」

「うっ」

「霧島くんの心臓が鳴ったけん、わかっただけやろうもん」

「そ、それでも見つけたのは見つけたもん!」

朝倉さんは何も言わずに、小銃の組み立てに戻った。

透は少し離れた柿の木の下で、それを聞いていた。

「あの、僕も意見、いいですか」

「いらん」

「いらない」

二人の声が、同時に返ってきた。

◇

夕方、離れの部屋で美雪さんがノートから顔を上げた。

「……朝倉さん」

「何ね」

「朝倉さんが、湯呑みを強く置いた回数を、記録しています」

「……何のために」

「科学的な興味です」

美雪さんは、ノートを朝倉さんの方へ向けた。日付と、時刻と、正の字が並んでいた。

十二月十八日。望月さんが来るまで、零回。来てから、一回。

十二月十九日。朝、一回。組み手のあと、一回。昼食のあと、一回。縁側で、一回。

「今日は、四回目です」

美雪さんは、眼鏡の位置を直した。

「湯呑みが、割れないか心配です」

朝倉さんは何も言わずに、手の中の湯呑みを置いた。

今日いちばん、静かな音だった。

◇

夜。

縁側に、千夜が一人で座っていた。

透が通りかかると、千夜は振り向かずに言った。

「透くん」

「はい」

「あたし、家で、ずっと言われてきたの。忍びは道具じゃ、って。道具は、使い道を聞かん。だから、今日まで、何のために隠れるのか、何のために見つけるのか、考えたことなかった」

千夜は膝を抱えて、星を見上げていた。

「でも、今日、透くんがあたしの背中に回ったとき。……なんか、嬉しかったの。あたしと同じ高さに、誰かがいるって」

透は、少し離れたところに腰を下ろした。

「……僕、覗きにしか使ってこなかったですよ。この技」

「知ってる。最低」

千夜は、笑った。

「でも、隠形はすごいんだよなあ……」

そう言って、千夜は透の方を振り向いた。

「だから、あたし、惚れちゃった!」

透は、答えなかった。が、心臓がどきどきしていた。

答えずに、星を見上げた。冬の空は、どこまでも澄んでいる気がした。

家の奥で、かつん、と湯呑みを置く音がした。

今日いちばん、大きな音だった。

お読みいただきありがとうございます。

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