第35話 甲賀の娘
一日一話、朝七時公開です。
十二月十八日。昼。
伊賀上野の駅で、望月千夜はバスを降りた。
制服のスカートの上に、大きすぎるグレーのパーカー。背中には、通学用のリュック。どこから見ても、田舎道には場違いな、ただの女子高生だった。
リュックの底には、棒手裏剣が十二本入っている。
『伊賀の霧島に、伝書と、継承者がおるはず。見極めてこい』
三日前、祖父の玄斎は、それだけ言った。
見極めて、どうするのか。千夜は聞かなかった。聞いても、答えは決まっている。忍びは道具じゃ。道具は、使い道を聞かん。
――はいはい。りょーかい。
千夜は、山へ向かって歩き出した。
◇
霧島の家は、集落のいちばん奥にあった。
千夜は裏山の杉の木の上から、その家を見下ろした。
縁側で、背の高い女の人が小銃を分解して手入れをしている。服は普通のニットだが、手つきが自衛官のものだ。土間の奥には、腰の曲がったおばあさん。離れの部屋で、眼鏡の女の人がノートに何かを書きつけている。
継承者は、男のはずだった。霧島透。二十二歳。
その男が、どこにもいない。
千夜は、目を閉じた。
耳で、手のひらで山の気配を一つずつ拾っていく。鳥。風。竹の葉。土の下の虫。普通の隠れ手なら、百メートル先までどこに潜んでいても心臓の音でわかる。物心ついてから、千夜が見逃した相手は一人もいない。
何も、引っかからなかった。
――留守、かな。
千夜は木から下りて、集落を一周した。田んぼのあぜ道。神社の裏。沢沿いの小道。
いない。
二周目は、もっとゆっくり回った。物置の屋根の上。用水路の暗渠の中。墓地の石塔の陰。
いない。
三周目が終わったとき、日は西に傾き始めていた。
「……いないじゃん」
千夜は山の中腹の湧き水のそばで、地面に座り込んだ。
◇
汗が、背中を伝っていた。
三時間、山を駆け回ったのだ。十二月の山でも、さすがに体が熱い。パーカーの中が、蒸れていた。
湧き水は岩の間から細く流れ出して、小さな溜まりを作っていた。周りには、葉を落とした木が数本立っている。
千夜はリュックからタオルを出して、湧き水に浸した。冷たい。
それから、パーカーの裾に手をかけた。中のシャツまで、汗でじっとりしている。せめて、首と背中だけでも拭きたかった。
パーカーを頭の上まで持ち上げた、そのときだった。
すぐ上で、心臓が鳴った。
どくん、と。
さっきまで、そこには何もなかった。風と、木の枝と、冬の空だけだった。その何もなかったはずの場所で、いきなり心臓が鳴った。
八の拍が、ほんの一拍だけ乱れた。普通の探り手なら、気づきもしない揺れだった。
千夜の手が、パーカーの裾を離すより早く、もう片方の手が、リュックの中の棒手裏剣をつかんでいた。
◇
透は湧き水の真上の、ケヤキの枝の上にいた。
朝からそこにいた。母に言われたのだ。今日は日が暮れるまで、誰にも見つかったらあかん。うちが鬼や。
母は山のどこかで透を探している。透はずっと、この枝の上で、風と同じ速さで息をしていた。
途中から、もう一人山を歩き回る気配があることには気づいていた。若い女の子の足音だった。軽くて、速くて、驚くほど正確な足運び。三度、この木の下を通った。三度とも、透には気づかなかった。
――誰だろう。
そう思っていた。ほんの、十秒前までは。
その女の子が湧き水のそばで、パーカーの裾に手をかけた。
――え。
そこから先は、自分でもよくわからなかった。
心臓が一拍だけ、勝手に乱れた。
◇
ひゅっ、と空気が鳴った。
棒手裏剣が、透の足元の枝に突き立った。二本目が手をかけていた枝の、指と指の間に。三本目が透の尻の下の枝を、ばきりと割った。
透は、落ちた。
枯れ葉の上に、背中から落ちた。伊賀に着いた朝、母に投げ飛ばされたのと同じ姿勢だった。
見上げると、パーカーを着直した女の子が、四本目の手裏剣を構えて立っていた。
「――見ーつけた」
ショートボブの髪が、怒りで逆立っているように見えた。
「……ていうか、最っ低!」
透は、跳ね起きた。そして、その場に額を地面にこすりつけた。
「僕の方が、先にいたんです。朝からずっと。そこへ来て、いきなり痴女り始めたのは、そっちです」
「誰が痴女よ! だったら、声かけなさいよ!」
「かけたら、今日の修行に負けるので」
女の子は透の頭を、靴の裏で踏みつけた。体重は軽いのに、ちょうど痛いところに力が乗っていた。
「ちょっと興奮したでしょ。ばっちり聞こえてたからね。」
「……すみません」
◇
千夜は男の頭を踏みつけたまま、動けなくなっていた。
――ちょっと、待って。
この男は、ずっとここにいたのだ。
三周、回った。三度、この木の下を通った。三度とも千夜はこの湧き水の前で立ち止まって、耳を澄ませた。それなのに、何も聞こえなかった。
この男の心臓が、自分から一拍乱れるまで。
――下心さえなかったら。
千夜は最後まで、この男を見つけられなかった。
物心ついてから、一度も見逃したことがなかった。祖父にも、兄弟子たちにも、甲賀のどの隠れ手にも、百メートル以内に近づかれたことはない。その千夜が、頭の真上、五メートルのところに半日いた男に、気づかなかった。
怒りと、恥ずかしさと、それから、もっと別の何かが、いっぺんに込み上げてきた。
顔が、熱くなっていく。耳まで。
「……あんた、霧島透?」
「はい」
足の下から、くぐもった声がした。
「……透、くん」
「えっ?」
千夜は自分の口から出た呼び方に、自分で驚いた。
◇
がさりと、斜面の上で枯れ葉が鳴った。
小銃を構えた朝倉さんが、木々の間から駆け下りてきた。音を聞きつけたのだろう。その後ろから、母がのんびりと歩いてくる。
朝倉さんは目の前の光景を見て、足を止めた。
地面に土下座する透。その頭を踏みつける、見知らぬ女の子。女の子の周りに散らばった、黒い棒手裏剣。
「……何しよっと」
「痴女に、覗きの疑いを持たれています」
透は、頭を踏まれたまま答えた。
朝倉さんの目が、すうっと冷えていった。
「通報するよ」
「ホントなんです! 僕はやってない!」
母が、ひょいと女の子の顔をのぞき込んだ。
「あら。あんた、望月さんとこの子やろ」
女の子は、びくりと振り向いた。母がそこに来ていたことに、たった今気づいたらしかった。
「……なんで、わかるんですか」
「足の運びが、玄斎さんにそっくりや。お祖父さん、元気にしとる?」
女の子は、口をぱくぱくさせていた。
母はそれから透を見下ろして、にっこりと笑った。
「透。見つかったなあ。今日の修行、あんたの負けや」
◇
その夜、望月千夜は霧島家の囲炉裏の前に正座していた。
祖母が出した白湯を両手で包んで、ずっと透の方を見ていた。
じっと。澄んだ緑色の大きな目で、瞬きもせずに。
透は、居心地が悪かった。
「……あの、望月さん」
「千夜でいいよ」
「望月さん。なんで、ずっとこっち見てるんですか」
「見てないと、また消えちゃいそうだから」
千夜は、真顔で言った。それから、ふっと頬を赤くして、白湯に目を落とした。
囲炉裏の向こう側で、朝倉さんが湯呑みを置いた。
かつん、と。いつもより、少しだけ大きな音だった。
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