第34話 鎧通しの修行
一日一話、朝七時公開です。
十二月十四日。
朝食のあと、透は母に門司の大甲の話をした。
首の付け根の継ぎ目に、刃は入った。けれど、その奥にもう一枚の甲殻があった。刃は、そこで弾かれた。
母は、黙って聞いていた。それから、湯呑みを置いた。
「あんた、伏せとる相手を斬ろうとしたんやろ」
「……うん」
「そら、斬れへんわ」
母は自分の首の付け根を、指でとんとんと叩いた。
「鎧を着た武者はな、じっと構えとるとき、どこにも隙間あらへん。継ぎ目が開くのは、動くときだけや。刀を振りかぶるとき。足を踏み出すとき。体の重さが、片っぽに移った、その一瞬だけ。……殻を着とるもんも、同じや」
「動いてる相手に、近づけってこと」
「そうや。動いとる相手の横に立って、鎧が開く瞬間を待って、そこに刃を入れる。じいちゃんは、それを鎧通しや言うとった。あんたには、まだ教えとらんかったけどな」
母は、立ち上がった。
「蔵、行こか」
◇
蔵の奥から母が引っぱり出してきたのは、古い鎧だった。
戦国のころのものだという。黒い鉄の板を、色褪せた紐で綴り合わせてある。兜はなく、胴と、肩と、腰の部分だけ。
母は、それを自分で身につけた。紐を締め、肩を回して具合を確かめる。
「ほな、始めよか」
母は、庭の真ん中に立った。
「この鎧の、継ぎ目に触ってみ。これで」
透の手に、木の短刀が渡された。
「触れたら、あんたの勝ち。うちは、普通に動いとるだけや」
母はそう言って、庭をゆっくりと歩き始めた。
◇
一時間後、透は霜の溶けた庭の土の上に、大の字になっていた。
一度も、触れなかった。
母は、ただ歩いているだけだった。縁側の前を通り、柿の木の下で立ち止まり、竹林の方へ曲がる。それだけだ。
けれど、透が気配を消して横に立ち、母の体重が片足に移る瞬間を待つと、その瞬間が来ない。来たと思って木の短刀を突き出すと、そこにはもう継ぎ目がない。母の体がほんのわずかに傾いて、鉄の板が重なり直している。
逆に、透が一歩下がると、その瞬間に母の背中の継ぎ目が目の前でぱっくりと開くのだった。
まるで、透の動きが全部見えているように。
「……なんで、わかるの」
「わかるもんは、わかるんや」
母は透の顔の上から、にこにこと見下ろしていた。
「あんたの隠形はな、相手がこっちを向いとらんときは、ようできとる。けど、相手がこっちを探しとるときは、雑や。消えよう、消えよう、て思うとる。その『思い』が、こっちに聞こえとる」
「……思いが、聞こえる?」
「心臓の音が、ちょっとだけ急ぐんや。今から斬るで、今から斬るで、て」
透は、空を見上げた。
――毎分八の心拍が、急いでる?
そんなこと、誰にも言われたことがなかった。
縁側で、朝倉さんが湯呑みを持ったまま、じっとこちらを見ていた。
◇
修行は、それから毎日続いた。
朝は、母の鎧に触れる稽古。昼は竹林で、吊るした竹の束を斬る稽古。夜は灯りを消した蔵の中で、母の気配を探す稽古。
三日目まで、透は一度も母に触れられなかった。
四日目の昼、竹林の稽古で母が新しいものを持ってきた。
庭の柿の木の枝から、太い丸太を一本縄で吊るした。その丸太に、蔵の鎧の胴を巻きつける。母が丸太を押すと、それは振り子のようにゆっくりと揺れ始めた。
「揺れが、いちばん高いとこで止まる。その一瞬に、胴の継ぎ目が開く。そこに、これを入れ」
今度は、木の短刀ではなかった。祖父の小刀だった。
「紐だけ斬り。鉄は斬らんでええ。継ぎ目の奥の紐を、一本だけ」
透は、揺れる丸太の横に立った。
息を殺す。心臓を沈める。
母に言われたことを、思い出す。消えよう、と思わない。斬ろう、とも思わない。ただ、そこに立っている。風と、揺れる丸太と、自分の呼吸が、同じ速さになるまで。
丸太が、こちらへ揺れてくる。止まる。
鉄の板と板のあいだに、紐が見えた。
小刀がその中へ、音もなく滑り込んだ。
ぷつり、と。
丸太が、揺れ戻っていく。胴の継ぎ目から、断ち切られた紐が一本だらりと垂れ下がった。
「……おお」
縁側で、祖母が小さく声を上げた。
母は垂れ下がった紐を、指でつまんで眺めていた。それから、透の方を見てにっこりと笑った。
「それや。忘れんとき」
◇
日が傾くころになっても、透は柿の木の下に立っていた。
丸太は、もう止まっていた。胴の継ぎ目から、断ち切った紐が一本垂れ下がったままだった。
「……あんた、まさか、さっきの要領で覗きのやり方考えとるんやないやろな。そやったら、許さへんで」
縁側から、母の声が飛んできた。
「違うよ」
透は、丸太から目を離さずに言った。
「小さいころ、じいちゃんに、庭で木の枝を持たされたでしょ。気づかれないように後ろに回って、首の一点に当てるやつ。……あれと、今日のこれ、どういう関係なのかなって」
母は、湯呑みを置いた。
「……あんたも、気づいたか」
母は縁側から下りてきて、透の隣に立った。
「あの枝の技はな、影刃いうんや」
「影刃」
透はその名前を、口の中で繰り返した。
「その影刃と、鎧通し。似てるようで、全然違う。でも……やっぱり、根っこは同じ気がする」
「そうやろな」
母は垂れ下がった紐を、指先で揺らした。
「影刃は、動の技や。息を殺して、心臓を沈めたまま、こっちから斬りに行く。鎧通しは、静の技や。ただそこにおるだけのもんになって、相手が隙を見せるまで待つ。……やり方は逆やけど、どっちも、相手に『そこにおる』と思わせへん」
透は、うなずいた。
「静と動で、違うんだけど。根っこは同じで……その先に、まだ何かある気がする」
母は、しばらく黙っていた。それから、柿の木の枝を見上げた。
「……じいちゃんも、同じこと言うとった」
「じいちゃんが?」
「影刃と鎧通しの先に、何かある気がする、てな。……けど、それをつかんだ人は、霧島にも一人もおらん。教えにも、どこにも書いてへん」
母は透の頭を、ぽんと一つ叩いた。
「つかめたら、あんたが最初や。……覗きには使いなや」
「使わないよ」
透の心臓が、ほんの少しだけ急いだ。
母は、何も言わずに笑った。
◇
その夜。
祖母の家の風呂は、母屋の外にある。昔ながらの薪で沸かす五右衛門風呂だった。小さな風呂小屋に、湯気抜きの小窓がついている。
「お先に、いただきます」
朝倉さんが、着替えを抱えて風呂小屋へ向かっていった。
透は、縁側でそれを見送った。
――修行の、成果を試すべきだ。
母は、台所で祖母と洗い物をしている。水の音と、二人の話し声が聞こえる。
――今なら。
透は、縁側から音もなく下りた。気配を消して、庭を横切る。母に言われたとおりに。消えよう、とは思わない。ただ、そこにいるだけ。
風呂小屋の裏に回り込む。小窓の下には、薪を積んだ台がある。そこに足をかければ、ちょうど、窓の高さに――。
薪の台の上に、誰かが座っていた。
母だった。
湯呑みを両手で包んで、のんびりと星を見上げている。
「寒いなあ、透」
透の心臓が、口から飛び出しかけた。
台所からは、二人分の話し声が聞こえていたはずだ。
「……母さん、今、台所に」
「おったよ。さっきまでな」
母は、にこにこと笑っていた。
「あんた、うちが台所から出たん、気づかへんかったやろ」
気づかなかった。少しも。
あの話し声は、途中から祖母が一人で、誰かと話しているふりをしていただけだったのだ。
そのとき、小窓が、がらりと開いた。
湯気の向こうから、朝倉さんの声がした。
「……誰か、おると?」
「うちですよ、葵さん」
母が、のんびりと答えた。
「覗き魔がな、薪をくべに来てくれたんよ。ほら、覗き魔」
母は薪を一本、透の手に押しつけた。
小窓の向こうで、朝倉さんが少しだけ黙った。
「……霧島くん。そこにおると?」
「薪をくべに来ました」
「変態」
小窓が、ぴしゃりと閉まった。
◇
風呂の焚き口の前で、透は薪をくべていた。
隣で、母が湯呑みのお茶を飲んでいる。
「……母さん」
「なに」
「本気の隠形って、どのくらいなの」
母は、少し首をかしげた。
「さあ。どのくらいやろなあ」
透は、考えた。子どものころから、かくれんぼで一度も母を見つけられなかった。覗きは、全部ばれていた。それでも、母が本気で隠れているところを透は一度も見たことがない。
見たことがない、ということは。
――見せてもらったことがない、ということだ。
焚き口の炎が、ぱちりと爆ぜた。
透が顔を上げると、隣にはもう誰もいなかった。湯呑みだけが薪の台の上で、まだ湯気を立てていた。
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