第33話 伊賀の母
一日一話、朝七時公開です。
十二月十三日。朝。
名阪国道を下りて、細い県道を山へ入っていくと、空気の色が変わった。
澄んでいた。
杉の山の稜線が、くっきりと青い空を切り取っている。田んぼには霜が降りて、朝日に白く光っていた。どこかで、鳥が鳴いている。
一か月、乳白色の霧の中にいた目には、何もかもが眩しすぎた。
「……きれいなところやね」
ハンドルを握ったまま、朝倉さんが言った。
「何もないですよ。コンビニまで、車で二十分かかります」
「霧島くんの基準、それなんやね」
後ろの席で、美雪さんが窓に額をつけていた。
「……空が、ある」
それだけ言って、彼女は黙った。
◇
祖母の家は、集落のいちばん奥にあった。
茅葺きの屋根をトタンで覆った、古い農家だった。広い土間と、縁側と、仏間。裏には竹林と、小さな蔵がある。透が子どものころ、夏休みのたびに来ていた家だった。
車を降りると、庭には誰もいなかった。
縁側の雨戸は開いている。土間の奥から、味噌汁の匂いがする。
「……おらんとね?」
朝倉さんが、あたりを見回した。
透も、見回した。闇眼で、耳で、肌で。庭の気配を、一つずつ探っていく。鳥。風。竹の葉のこすれる音。
誰も、いない。
――いや。
次の瞬間、透の視界がぐるりと回った。
背中から、地面に叩きつけられた。霜の降りた土が、冷たかった。青い空が、目の前に広がっている。
その空を、母の顔がのぞき込んでいた。
「おかえり、透」
にこにこと、笑っていた。
「隠形が、雑になっとる」
それから、母の目が透の左肩で止まった。
「それと、その肩。怪我しとるやろ。あとで診たるわ」
◇
朝倉さんは、小銃に手をかけたまま固まっていた。
無理もなかった。朝倉さんは、透の真後ろにいたのだ。それなのに、母がどこから来たのか、まるでわからなかったらしい。
「あらあら、ごめんなさいね。びっくりさせて」
母は透の上からひょいと身を起こして、朝倉さんに頭を下げた。どこにでもいる、近所でも評判の穏やかな主婦の顔だった。
「透の母です。静といいます。この子が、えらいお世話になって」
「……朝倉、葵です。陸上自衛隊の」
「まあ、自衛隊さん。遠いとこ、ほんまにおおきに」
母は、それから美雪さんに向き直った。
「林さんやね。電話で聞いとります。ご飯、食べられへんもんある?」
「……いえ、何でも」
「よかった。ばあちゃん、今朝から張り切ってなあ」
透は、地面に寝転がったまま言った。
「僕には、何か言うことないの」
「言うたやん。おかえり、て」
母は、透の顔をもう一度のぞき込んだ。それから、朝倉さんの方を振り返って、声をひそめた。
「……この子、覗いてへん?」
朝倉さんは、一秒も迷わなかった。
「覗いてます」
「やっぱりなあ。ほんまに、すんません」
母は、深々と頭を下げた。それから顔を上げ、朝倉さんを上から下まで眺めて、しみじみと言った。
「でも、透が覗きたくなる気持ちもわかるわぁ」
「でしょう」
透の声は、誰にも拾われなかった。
◇
祖母のハツは、土間の奥の囲炉裏の前に座っていた。
八十四歳。小さな体を丸めて、湯呑みを両手で包んでいる。透が子どものころから、まるで変わっていなかった。
「透か」
「うん。ただいま、ばあちゃん」
「ほうか。……生きとって、よかったわい」
それだけ言って、祖母は湯呑みを置いた。
「巻物、出し」
透は、背中の荷物から巻物を取り出した。祖母はそれを受け取ると、紐をほどき、膝の上で後半まで一気に広げた。記号の並びを、皺だらけの指でなぞる。
「……これが、影縫之巻か」
祖母は、小さく言った。
「ばあちゃんも、初めて見るの」
「巻物は、当主しか開いたらあかん決まりや。源さんも、わしには一遍も見せてくれへんかった。……わしが預かっとるのは、読み方の書きつけだけや。これも、わしが死ぬ前に、透に渡すつもりやった」
「読めるの」
「読める。……けど、急かしたらあかん。これは、一字ずつ、こっちの書きつけと突き合わせていかなあかんのや。十日はかかる」
「十日」
「これは暗号の一種や。急いだら、読み間違える」
祖母は巻物をくるくると巻き直して、自分の膝の横に置いた。それから、美雪さんの方を見た。
「あんたが、門の向こうのもんを調べとった人か」
美雪さんの肩が、びくりと揺れた。
「……はい」
「ほうか」
祖母は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、湯呑みにもう一杯、白湯を注いで、美雪さんの前に置いた。
◇
昼過ぎ、透は仏間に入った。
線香の匂いがした。子どものころから、この家の仏間はいつもこの匂いがしていた。
仏壇には、祖父の写真があった。郵便配達の帽子をかぶって、日に焼けた顔で笑っている。
その横に、もう一枚。
小さな男の子の写真だった。十歳くらい。坊主頭で、少しだけ得意そうに、カメラを見ている。
朔。透の兄だ。
透が二歳のとき、この山で事故に遭って死んだ。透には、何の記憶もない。写真の中の兄は、透にとって仏壇の一部のようなものだった。
透は、何気なく手を合わせた。祖父に。それから、兄に。
背後で、畳がかすかに軋んだ。
母なら、畳一枚軋ませずに後ろに立てる。わざと、鳴らしたのだ。ここにおるよ、と。
母が、仏間の入り口に立っていた。いつからいたのかは、わからなかった。
「……あの子はな」
母は、写真を見ていた。
「あんたより、才能あったんよ」
透は、振り向いた。母が兄の話をするのは、これが初めてだった。
「かくれんぼでな、じいちゃんでも見つけられへんかった。十歳でや。じいちゃん、『百年に一人や』言うて、自慢しとった」
母は、少しだけ笑った。
「あんたは、じいちゃんにも、うちにも、毎回見つかっとったなあ」
「……意味のある技術だとは、思ってなかったから」
「そうやね」
母は、それ以上は何も言わなかった。線香を一本立てて、静かに手を合わせて、仏間を出ていった。
透はもう一度、写真を見た。
写真の中の兄は、やっぱり得意そうな顔をしていた。
仏間を出ようとして、透は足を止めた。
廊下に、美雪さんが立っていた。開いた障子の隙間から、仏壇の方を見ていた。
「……似てる」
美雪さんが、小さくつぶやいた。
「よく言われます。小さいころの僕に、そっくりだって」
美雪さんは、答えなかった。写真の男の子から、しばらく目を離さなかった。それから、「すみません」とだけ言って、離れの方へ戻っていった。
◇
その夜、透は縁側に座っていた。
空に、星が溢れていた。福岡の霧の上にも、この星はあったはずだった。一か月、一度も見えなかっただけで。
隣に、朝倉さんが座った。祖母の綿入れの半纏を羽織っている。袖が、少し短かった。
「……お母さん、すごいね」
「僕の趣味の天敵です」
「霧島くんが、地面に転がされるとこ、初めて見た」
「うちでは、あれが『おかえり』なんで」
朝倉さんが、くすりと笑った。
それから、空を見上げたまま言った。
「……お兄さん、おったんやね」
「写真でしか、知らないですけど」
「そっか」
二人で、しばらく黙って星を見ていた。
透は無意識に、縁側の板をつま先で鳴らしていた。
トン、トン。とん。
――ここにおるよ。
子どものころ、この縁側で母に教わった合図だった。
すると、家の奥から同じ音が返ってきた。
トン、トン。とん。
朝倉さんが、振り向いた。
「……今の、なんね?」
「うちの、合図です」
透は、家の奥の暗がりを見た。誰の姿も見えなかった。
「ここにいるよ、っていう」
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