第32話 霧の外
一日一話、朝七時公開です。
「タイトルを変更しました。内容はこれまでと変わりません。引き続きよろしくお願いします」
十二月十二日。夜明け前。
彦島の外れに、コンビニが一軒明かりをつけていた。
電気がついている。それだけのことに、三人ともしばらく足を止めて見入っていた。自動ドアの向こうに、白い蛍光灯の光が満ちている。棚に、おにぎりが並んでいる。
「……営業しとう」
朝倉さんが、信じられないものを見るように言った。
警戒線のすぐ近くでも、霧の外では人はまだ暮らしていた。
◇
店に入ると、レジの奥で若い男の店員がスマホをいじっていた。
透は、カゴに必要なものを放り込んでいった。タオル。カイロ。靴下。肌着。温かいお茶を三本。湿布。消毒液と、包帯。それから、携帯の充電器。
三人とも、全身ずぶ濡れだった。店員は朝倉さんの迷彩服と小銃を見て、目を丸くした。それから、美雪さんを見た。
レジにカゴを置いたのは、透だった。
「お願いします」
「うわっ」
店員が、スマホを取り落とした。
「……すんません。いつからおったんですか」
「最初からです」
朝倉さんが、横を向いて肩を震わせていた。
透はさっきのお返しに、その脇腹をきゅっとつねった。
「きゃっ」
店の中に、思いがけず可愛い声が響いた。店員が、また肩を跳ね上げた。美雪さんが、目を丸くして朝倉さんを見た。
朝倉さんの顔が、みるみる赤くなった。
次の瞬間、ばしん、と透の頭が鳴った。今まででいちばん、容赦がなかった。
◇
三人は順番に店のトイレを借りて濡れた服を着替え、イートインの隅でカイロを体中に貼った。透は朝倉さんの右手の傷を消毒して、包帯を巻き直した。朝倉さんは、何も言わずにされるままにしていた。
透は店のコンセントを借りて、携帯の充電器をつないだ。一か月ポケットの中で死んでいた携帯が、震えながら息を吹き返した。
画面が点いた瞬間、通知が雪崩のように流れ込んできた。
父からのメッセージが、四十七件。
【透、無事か】
【返事くれ】
【母さんは「大丈夫や」としか言わん】
【父さんは大丈夫やない】
母からは、一件もなかった。
――母さんらしい。
朝倉さんも、自分の携帯を充電していた。画面を見つめたまま、指が止まっている。
それから、ある番号にかけた。
耳に当てる。しばらく待つ。
朝倉さんは、何も言わずに電話を切った。
「……母の携帯」
それだけ言った。
天神へ向かう途中、朝倉さんは一度だけ、博多の実家に寄っていた。透も、そのとき一緒にいた。家は空っぽで、台所のホワイトボードに、母親の字で「近くの小学校に避難します」と書いてあった。けれど、その小学校にももう誰も残っていなかった。
霧の外に逃げていれば、携帯はつながるはずだった。
透は、何も言えなかった。朝倉さんは携帯を伏せて、温かいお茶を両手で包んだ。
「……生きとうよ。うちの母、しぶといけん」
自分に言い聞かせるような声だった。
◇
朝倉さんは、もう一本電話をかけた。
今度は、相手が出た。
「――朝倉三曹です。……はい。……はい、生きています」
背筋が、伸びていた。
相手は、中隊長の宮原三佐だった。小倉の部隊は、上陸の夜に大きな被害を出したあと、生き残りが下関に集められ、いまは関門の警戒線を守っているという。
朝倉さんは、報告した。小隊長の戦死。松尾、今村、長尾の生存。香椎東中学校の避難所。留学生を装って避難所に入り込んだ、アメリカの工作員。灰鷺と名乗る、表には出ない班。博多港に船を着け、群れを呼び寄せる機械まで持ち込んだ、中国の部隊。そして、中国の研究者のこと。
電話の向こうで、長い沈黙があった。
朝倉さんの顔から、少しずつ色が引いていった。
「……共同調査を、受け入れる方向」
政府は、中国の「人道支援と共同調査」の申し出を、受け入れる方向で調整に入っている。合意が成れば、中国の調査団が封鎖区域に入る。区域内で保護された中国人の研究者は、調査団に引き渡される。
「……その調査団の中に、林さんを追ってきた連中がおったら」
朝倉さんの声が、低くなった。
「渡した時点で、終わりです」
電話の向こうで、宮原三佐が何かを言った。朝倉さんは、黙って聞いていた。
「……はい。……了解しました」
電話を切った朝倉さんは、しばらく携帯を見つめていた。
美雪さんが両手でお茶を包んだまま、小さく言った。
「調査団は、実験を命じた人たちの部下です。私が渡されたら、データは消されて、私も消えます。……巣核を止める方法も、一緒に」
「昼に、中隊長が来る」
コンビニに長居はできなかった。迷彩服に小銃の女と、ずぶ濡れで来た三人連れは、目立ちすぎる。店員は、さっきから何度もこちらを盗み見ていた。
三人は店を出て、宮原三佐が指定した海沿いの公園へ移った。冬の平日の公園には、人影がなかった。東屋のベンチで、昼を待った。
◇
昼過ぎ、公園の駐車場に白い軽自動車が一台入ってきた。
降りてきたのは、私服の男だった。四十代半ば。日焼けした顔に、短く刈った髪。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、まっすぐ東屋へ歩いてきた。
朝倉さんが、立ち上がって敬礼した。
「よか。座れ」
宮原三佐は、朝倉さんの向かいに腰を下ろした。それから、美雪さんを見た。
「あなたが、林さんですか」
「……はい」
宮原三佐は、しばらく美雪さんの顔を見ていた。それから、朝倉さんに視線を戻した。
「報告は、聞いた。けど、上には上げられん。こっちで匿うのも、難しか」
「……」
「上げたら、この人は向こうに渡される。それが、いまの決まりやけん」
「アメリカの工作員と、中国の部隊のことは、上に上げる。そっちは、隠す理由がなかけん」
朝倉さんが、膝の上で拳を握った。
「……中隊長。救出部隊が来んかったとは、なんででしょうか」
宮原三佐は、少しだけ目を伏せた。
「行った。最初の一週間で、三回。……三回とも、霧に入った部隊は、すぐに壊滅して、逃げ帰ってきた」
朝倉さんは、何も言わなかった。
「霧の中じゃ、無線もレーダーも使えん。ヘリは飛べんし、誘導弾も役に立たん。十メートル先も見えんところで、向こうは目も使わんで、こっちの息と心臓の音を拾うて寄ってくる。撃てば、その音でまた寄ってくる。……外から焼こうにも、中には住民が何万人も残っとう。爆撃も砲撃もできん。それで、十一月の二十日に、政府が区域を封鎖した。中に入るのは、やめる。自力で警戒線まで出てきた人だけ、保護する。……それが、いまの決まりや」
宮原三佐は、海の向こうの霧を見た。
「お前の小隊が帰ってこんかったときも、誰も、迎えに行けんかった」
宮原三佐はジャンパーの内ポケットから、車の鍵を取り出して、ベンチの上に置いた。それから、足元の紙袋を朝倉さんの方へ押しやった。
紙袋の中には、小銃の弾倉が三本入っていた。
「訓練で撃ったことにしとく」
宮原三佐は、足元に置いていた細長い布のケースを持ち上げた。釣り竿を入れるためのものだった。
「それと、これ。ここは霧の外やけん、非常時やなか。小銃をむき出しで持ち歩いとったら、すぐ通報される。普段は、これに入れとけ」
宮原三佐は、もう一つの紙袋を足で押しやった。
「その格好も目立つ。嫁さんの服、適当に詰めてきた。サイズは知らん」
「中隊長」
「朝倉三曹は、まだ封鎖区域の中で行方不明。俺は、今日ここで誰にも会っとらん。そういうことにしとく」
宮原三佐は、立ち上がった。
「状況が変わるまで、お前がこの人を守れ。これからどう動くつもりかは、あえて聞かんでおく。聞いたら、報告せんといかんごとなるけん。……それと、二人とも、ちゃんと飯を食え」
「三人です」
透が言った。
宮原三佐が、びくっと振り向いた。
「……おったとか」
「最初からいました」
宮原三佐は透の顔をまじまじと見て、それから朝倉さんを見た。
「……これが、報告にあった民間人か」
「はい」
「……なるほどな」
何がなるほどなのかは、言わなかった。宮原三佐はジャンパーのポケットに手を戻して、公園を出ていった。帰りは、バスで帰るらしかった。
◇
朝倉さんは、公園のトイレで着替えてきた。
白いニットに、細身のジーンズ。上から、キャメルのコート。髪はポニーテールをほどいて、背中に下ろしていた。
私服の朝倉さんを見るのは、あの霧の夜のコンビニ以来だった。
心臓が、勝手に跳ねた。いつもの六十から、百を超えるまで、あっという間だった。
ニットの胸元が、少しだけ窮屈そうだった。サイズは知らん、と宮原三佐は言っていた。
――見てない。景色だ。これは景色だ。
「……何、見とうと」
「景色です」
「嘘ばっかり。……今のあなた、めっちゃ気配が出とるよ」
朝倉さんは、コートの前をぎゅっと合わせた。耳の先が、赤かった。
美雪さんが透の顔を見て、小さく言った。
「呼吸も荒くなっています」
「冷静に分析するの、やめてください」
◇
出発の前に、透は公園の駐車場の隅で、母に電話をかけた。
呼び出し音が一回も鳴らないうちに、つながった。
「――透」
母の声だった。いつもと、何も変わらない声。
「……うん」
「生きとったんやね」
「……うん」
「まあ、あんたが、そう簡単に死ぬわけないしな」
電話の向こうで、母が少しだけ笑った。それだけだった。泣きもしないし、問い詰めもしない。
「父さんには、電話したげて。あの人、毎晩泣いとるから」
「……わかった」
「それで? 何か用があるんやろ。あんたが自分から電話してくるときは、いつもそうや」
透は、少し迷ってから言った。
「じいちゃんの巻物。後ろの方の、暗号みたいなところ。ばあちゃんに読んでほしい」
電話の向こうが、静かになった。
「……読んだんやね、あれ」
「前の方だけ」
「そうか」
また、短い沈黙があった。
「ほな、伊賀で待っとるよ。ばあちゃんにも、言うとく」
「母さんも、来るの」
「当たり前やろ。……それから、透」
「なに」
「あんた、連れがおるやろ。女の人」
透は、何も言っていなかった。
「……なんでわかるの」
「声でわかるわ。ほな、気ぃつけてな」
電話は、それで切れた。
――やっぱり、あの人は怖い。
透は、続けて父に電話をかけた。こっちは、出た瞬間に泣き出した。
◇
夜。三人を乗せた軽自動車は、中国自動車道を東へ走っていた。
運転は、朝倉さんだった。後ろの席で、美雪さんが毛布にくるまって眠っている。
透は助手席から、窓の外を流れる明かりを眺めていた。サービスエリアの明かり。遠くの町の明かり。どれも、当たり前に灯っている。
霧の中のろうそくの明かりを思い出した。
「……霧島くん」
朝倉さんが、前を見たまま言った。
「はい」
「お母さん、どんな人なん」
透は、少し考えた。
「……かくれんぼで、一回も見つけられなかった人です」
「一回も?」
「一回も。僕が覗きをしてたのも、全部ばれてました。翌朝、朝ごはんのとき、にこにこ笑ってるんです。何も言わないで」
朝倉さんが、ちらりと透を見た。
「……霧島くんが、勝てん人がおるとね」
「たくさんいますよ。朝倉さんとか」
ハンドルを握る朝倉さんの手が、一瞬だけ止まった。
「……運転中に、変なこと言わんで」
「困ったことに、本当なんです」
朝倉さんは、それきり黙った。
けれど、トンネルの明かりが車の中を照らすたびに、その耳の先が赤いのが、透には見えていた。
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