第31話 関門を越えて
一日一話、朝七時公開です。
第四部 開始
十二月九日。朝。
避難所を出るとき、見送りはなかった。そう決めていた。人が集まれば、音が出る。
それでも、非常階段の踊り場に松尾が立っていた。
「班長」
「見送りはなしって言うたやろ」
「見送りやないです。見張りです」
松尾は腫れの引いた顔で、まっすぐに敬礼した。朝倉さんは少しだけ迷ってから、敬礼を返した。
「……ここ、頼んだけんね」
「はい」
透は、その横を黙って通り過ぎた。松尾が、小声で言った。
「霧島さん。班長、頼みます」
「逆だと思います。僕が頼む側です」
「なら、お互いさまです。二人とも、無事で帰ってきてください」
◇
関門までは、およそ八十キロ。
一人なら、透は二日で歩ける。けれど、今は三人だった。
朝倉さんは音を立てずに歩くことには慣れていないし、美雪さんに至っては研究者だ。そもそも歩くことに慣れていない。この足で八十キロは、無理だった。
初日の昼、古賀の国道沿いで目星をつけていた車の販売店にたどり着いた。ガラス張りのショールームの奥に、白い電気自動車が一台展示されていた。
「……あった。これなら、音はせん」
朝倉さんが、ガラス越しにそれを見つめて言った。
事務所の壁には、展示車の鍵が掛かったままだった。充電器につながれていた車の電池は、八割ほど残っていた。霧が来た日から、誰も触っていなかったのだろう。
運転は、朝倉さんがした。
速くは走れなかった。道には乗り捨てられた車が並び、何度も引き返して脇道を探した。エンジンの音はなくても、タイヤが路面を噛む音は霧の中で思ったよりも響く。
透は助手席の窓を開け、体を半分外へ乗り出したまま、闇眼を凝らし続けた。ガラス越しでは、空気の揺れが読めない。冷たい霧が、頬を打ち続けた。白い壁の向こうに群れの形が浮かぶたびに、手を上げる。朝倉さんがすぐに車を止め、三人は車内で息を止めた。透が一人で先へ出て、通り道を確かめてから手で合図を送る。その繰り返しだった。
朝倉さんにも美雪さんにも、霧の向こうは何も見えていない。透の手が上がらなければ、車は何度も群れの真ん中へ突っ込んでいただろう。
古賀を抜け、宗像を抜け、遠賀川を渡った。夜は、マンションの上の階の空き部屋で眠った。
二日目の夕方、小倉に入った。
「駐屯地に寄る。弾薬庫に、弾が残っとるかもしれん」
駐屯地は、通り道から一キロも離れていなかった。
正門の周りには、群喰の群れがいた。透が一人で中へ入り、朝倉さんに教わった弾薬庫へ向かった。
弾薬庫の鉄の扉には、鍵がかかっていた。分厚い鉄の扉で、小刀でこじ開けられるようなものではない。鍵を持っているのは、管理を任された隊員だけだ。その人がどこにいるのか、生きているのかも、わからない。
戻って伝えると、朝倉さんは何も言わなかった。霧の向こうのフェンスと、倒れた車両の影を見ていた。それから、ポニーテールを黙って結び直した。
そして、運転席に戻った。
◇
十二月十一日。夜。
門司の和布刈。関門海峡の九州側のいちばん端だ。
霧の向こうから、潮の匂いと、速い流れの音がする。海の向こうは、もう本州だった。
朝倉さんが海沿いの駐車場の隅に車を止め、三人はそこで降りた。
「……ここまでやね」
ここから先は、自分の足だけが頼りだった。
「人道トンネルは、あの建物の中です」
朝倉さんが、海沿いの低い建物を指さした。
「エレベーターで地下に下りて、海の下を歩いて渡る。七百八十メートル。普通に歩けば、十五分くらい」
「エレベーター、動いてないですよね」
「横に、非常階段がある。六十メートルくらい下りる」
美雪さんが、小さく息をついた。
「……階段は、もう慣れました」
三人は、建物の手前の植え込みに身を伏せた。
透は、闇眼で建物の入り口を探った。
音が、おかしかった。
建物の前の広場に、何かがある。大きな、硬いものが。霧の中で、波の音がそこにだけ当たって、跳ね返ってくる。岩でも、車でもない。
それが、ゆっくりと息をした。
◇
霧の向こうに、黒い影が浮かび上がっていた。
伏せた姿勢でも、建物の庇に背中が届いている。全身を覆う殻は、岩のように分厚く、継ぎ目が見えない。前脚を折りたたみ、建物の入り口を自分の体でふさぐように伏せている。
「……甲喰です」
美雪さんが、かすれた声で言った。
「でも、大きすぎる。普通の甲喰は、体高三メートルほどです。あれは、立ち上がったら五メートルを超えます」
「門番、みたいですね」
透は言った。
伏せたまま、動かない。まるで、ここを通るものを待っているように。
「大甲、とでも呼んどこか」
朝倉さんは、小銃を引き寄せた。それから弾倉に指を触れて、手を止めた。
二発。
長虫に、十二発使った。残りは、それだけだった。
「……撃っても、無理やね」
朝倉さんは、低く言った。
「伏せとるけん、関節が全部閉じとう。あの甲殻に二発当てても、音で群れを呼ぶだけ」
◇
「僕が、行ってみます」
透が言うと、朝倉さんが振り向いた。
「行ってみるって」
美雪さんが、小声で言った。
「甲喰の急所は、甲殻の継ぎ目です。首の付け根にもあります。それに、甲喰は体が重いぶん感覚が鈍くて、三メートルまで近づかないと気づきません」
「僕なら、そもそも気づかれません」
「斬れると?」
「……やってみないと、わかりません」
朝倉さんは、しばらく透を見ていた。それから、短く言った。
「無理やったら、すぐ戻って」
植え込みから出て、大甲へ向かう。
息を殺す。心臓を沈める。二十。十。八。
大甲の巨体が、近づいてくる。甲殻の表面に、霧の水滴がびっしりとついている。五メートル。三メートル。
一メートル。
大甲は、動かない。
透は、伏せた首の横に立った。首の付け根に、甲殻の重なりがある。その隙間は、指一本分もなかった。
小刀を抜く。
祖父の庭で、何千回と繰り返した動き。気づかれずに背後に立ち、首筋の一点へ――。
刃が、甲殻の重なりに滑り込んだ。
その瞬間、手首に硬い衝撃が返ってきた。
きぃん、と。
刃は継ぎ目の奥で、もう一枚の甲殻に弾かれていた。
◇
大甲が、目を覚ました。
伏せていた巨体が、ゆっくりと持ち上がる。前脚が伸び、首が持ち上がり、霧の中に黒い塔のような影がそそり立った。
五メートル。
見上げた透の頭の上で、甲殻のこすれる音がした。
――まずい。
心臓が、勝手に跳ねた。二十。四十。六十。
隠形が、解けた。
大甲の頭が、こちらへ傾いた。目のない顔が、まっすぐに透の胸を向いている。
透は、走った。
植え込みの方へは行けない。そこに、朝倉さんと美雪さんがいる。透は、海沿いの道を反対側へ走った。
背後で、地面が揺れた。大甲の前脚が、透のすぐ後ろのアスファルトを叩き割った。砕けた塊が跳ね上がり、透の左肩を打った。
体が、横に吹き飛んだ。
アスファルトの上を転がる。肩から先が、痺れて動かない。
首に掛けた鈴が、ちりん、と鳴った。
祖父に「鳴らさんように暮らせ」と掛けられてから、十年以上、一度も鳴らなかった鈴だった。
大甲が、追ってくる。動きは遅い。けれど、一歩が大きい。
透は右手でポケットの空き缶をつかみ、霧の向こうへ投げた。缶は岸壁に当たって、からん、と鳴った。
大甲は、見向きもしなかった。
――心臓だ。
音ではなく、透の心臓を追っている。この距離にいる限り、どこへ缶を投げても無駄だった。
透は、倉庫の壁際に転がり込んだ。背中が、壁に当たる。行き止まりだった。
大甲の頭が、霧の中から降りてきた。
一メートル。
甲殻のすき間から、湿った息が吹きつけてくる。目のない顔が透の胸のすぐ前で、ゆっくりと左右に揺れていた。探っている。
肩が、焼けるように痛い。痛みが、心臓を叩く。
――沈めろ。
息を、吐ききる。止める。
六十。五十。
沈まない。肩の痛みが、そのたびに心臓を叩き起こす。
四十。……五十。
大甲の頭が、止まった。透の胸の真正面で。
甲殻のこすれる音がした。顎が、ゆっくりと開いていく。
――だめだ。
そのとき、霧の向こうで、しゅうっ、と何かが鳴った。
赤い光が、霧を染めた。放り投げられた光の塊が、アスファルトの上を転がって、大甲の前脚のすぐ横で止まった。火花を散らしながら、激しく燃えている。
発炎筒だった。
大甲の頭が、ぐるりとそちらを向いた。
燃える炎の熱。弾ける火花の音。透の心臓よりも、ずっと熱くて、ずっとうるさいもの。
大甲は、透から離れた。発炎筒に覆いかぶさり、前脚で何度も叩き潰そうとする。
その隙に、透は息を吐ききった。
二十。十。八。
発炎筒の火が消えたとき、大甲の頭がもう一度、透の方を探った。けれど、そこにはもう、石や壁と同じものしかなかった。
重い足音が、遠ざかっていく。大甲はもとの場所へ戻り、建物の入り口の前にまた伏せた。
透は壁にもたれたまま、しばらく動けなかった。左肩が、心臓とは別の速さで、ずきずきと脈打っていた。
◇
植え込みに戻ると、朝倉さんが透の胸ぐらをつかんだ。
「……無理やったら、すぐ戻ってって言うたやろ」
「さっきの朝倉さんですよね? 助かりました」
「あいつを一人で引きつけて、反対に逃げよったやろ。私らの方に来させんように。……そういうのを、一人で決めんで」
朝倉さんの手が、少しだけ震えていた。透は、何も言い返せなかった。
それから、朝倉さんは透の左腕に気づいた。だらりと下がったまま、動いていない。
「……肩」
「破片が当たっただけです」
朝倉さんは、透の肩を指で押さえた。透は、声を殺して顔をしかめた。
「……折れてはなか。けど、しばらく上がらんよ」
「……発炎筒はどこから」
「そこの軽トラから。古い車には、まだ発炎筒が積んであるけん」
朝倉さんは、道の端に乗り捨てられた軽トラックを顎で示した。運転席の窓ガラスが、割られていた。
割れ残ったガラスの縁に、血がついていた。急いでいたのだろう。割った窓に、そのまま手を突っ込んだのだ。
朝倉さんは、右手を背中に回していた。
「……手、見せてください」
「なんでもなか」
透は黙って朝倉さんの右腕をつかんで、背中から引っぱり出した。朝倉さんは少しだけ抵抗してから、力を抜いた。
手の甲に、ガラスで切った傷が走っていた。血は、まだ止まっていなかった。
透は水筒の水で傷口を洗い、自分のハンカチをきつく巻いた。朝倉さんは、一瞬だけ顔をしかめた。
「……ありがとうございます」
「お礼は、さっき聞いた」
朝倉さんは、そっぽを向いた。けれど、手は引っ込めなかった。
小刀の刃を見た。刃こぼれはない。けれど、あの手応えはまだ手首に残っていた。継ぎ目の奥に、もう一枚。
――あれは、斬れない。今の僕には。
美雪さんが、静かに言った。
「……ほかに、道はありますか」
朝倉さんが透の手から、そっと自分の手を引いた。それから、霧の向こうの門司の街を見た。
「鉄道のトンネルがある。門司駅の先から、下関まで。三キロ半」
◇
門司駅の先の線路は、霧の中へまっすぐ延びていた。
その先に、トンネルの口が黒く開いていた。大甲の姿は、なかった。
トンネルの中は、真っ暗だった。透は先頭に立ち、闇眼で前を探りながら歩いた。
レールの上は歩かない。長虫のトンネルで、それは学んでいた。線路の脇のコンクリートの通路を選ぶ。
「……揺れとらんよね」
朝倉さんが、小声で聞いた。
「ここには、長虫はいないと思います。いたら、もう来てます」
「それ、安心していいと?」
「たぶん」
一キロほど進むと、トンネルが下り坂になった。海の底へ向かっている。
足元に、水が溜まり始めた。くるぶし。すね。膝。
「……排水のポンプが、止まってるんでしょう」
美雪さんが、震える声で言った。冷たい水だった。十二月の、海の底の水。
いちばん深いところで、水は腰まで来た。
三人は、黙って水の中を歩いた。波を立てないように、ゆっくりと。透は動く右手で美雪さんの手を引き、朝倉さんは小銃を頭の上に掲げていた。
やがて、道が上り坂に変わった。水が引いていく。
海を、越えた。
◇
下関側の出口が、近づいてきた。
トンネルの先が、明るかった。
ライトだった。霧の中ではなく、澄んだ夜の空気の中で、白い光がこうこうと灯っている。その光の前に、土嚢と鉄条網が積まれていた。人影が、いくつか動いている。
自衛隊の警戒線だった。
「よかった。自衛隊です」
透は、光の方へ歩き出そうとした。
「ちょっと待って」
朝倉さんが、透の右腕をつかんだ。
「ここで出ていったら、林さんは『保護された中国人』として、手続きに乗せられる。隔離されて、そのあとは上が決める」
美雪さんが、小さく言った。
「中国は、私を返せと言ってくるはずです。研究所の職員として。……そのとき日本が断れるかは、わかりません」
朝倉さんは、しばらく黙っていた。
「……中隊長に、直接話す。信用できる人やけん。それまでは、誰にも渡さん」
朝倉さんは、トンネルの壁に目をやった。そこに、鉄の扉があった。
「保守用の通路やね。たぶん、上に抜ける縦穴につながっとる」
扉の向こうには、鉄の梯子が上へ続いていた。透は、右手だけで上った。
上りきった先は、小さなポンプ小屋だった。扉の隙間から外を覗くと、すぐそばに、小銃を抱えた見張りが一人立っていた。三人で抜けるには、近すぎた。
朝倉さんが、透の耳元でささやいた。
「……霧島くん。あの人を、小屋から離せる?」
「一人なら、見つからずに出られます」
「頼む。いつもの、音のやつで」
透は、扉の隙間から外へ滑り出た。見張りの視線が海へ向いた一瞬に、その背後を抜ける。
小屋から三十メートルほど離れた、鉄条網の陰。透は足元の小石を拾い、鉄条網の向こうの草むらへ放った。
かさっ、と小さな音がした。
見張りが振り向いた。懐中電灯を点け、小銃を構えて、音の方へ歩いていく。一歩、二歩。小屋から、離れていく。
草むらを照らす光の輪が、ゆっくりと左右に動いた。
その間に、小屋の扉が音もなく開いた。朝倉さんが、美雪さんの手を引いて出てくる。軍靴のかかとを地面につけずに、見張りの背中とは反対の暗がりへ。
見張りは、首をかしげて草むらを照らし続けていた。透も、暗がりの中で二人に追いついた。
やがて、見張りがぽつりと言った。
「……猫か」
透は、口を押さえた。
――本当に言う人、いるんだ。
小石の音に「……猫か」。時代劇かコントでしか聞かないと思っていた。肩が、勝手に震え出した。
朝倉さんの指が、透の脇腹を思い切りつねった。
出かかった声を、透は全力で呑み込んだ。
見張りは、小屋の前に戻っていった。三人は、そのまま暗がりの奥へ進んでいった。
◇
ポンプ小屋から百メートル離れた草むらの中で、三人は倒れ込んだ。
濡れた服が、凍るように冷たい。歯が、勝手に鳴った。
それでも透は仰向けになって、空を見ていた。
星が、見えた。
一か月ぶりの星だった。
隣で、朝倉さんが「……出た」と言った。
振り向くと、海の向こうに白い壁が立っていた。関門海峡の向こう岸から、空の上まで。霧の壁だった。
あの中に、香椎がある。避難所があり、ひなたがいる。
透は胸ポケットの上から、ひなたの飴を触った。
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