第41話 大甲、再び
第五部 開始
十二月二十九日。夜。
下関の海沿いの公園は、二週間前と同じように暗かった。
東屋のベンチに、ジャンパー姿の男が一人、座っていた。宮原三佐だった。
朝倉さんが、軽自動車の鍵をベンチの上に置いた。
「お返しします。ガソリンは、満タンにしときました」
「……律儀やな」
宮原三佐は、鍵をポケットに入れた。それから、車から降りてきた四人を順に見た。透。美雪さん。そして、パーカーのフードをかぶった千夜。
「一人、増えとるな」
「望月千夜です。……甲賀から来ました」
千夜が、背筋を伸ばして頭を下げた。宮原三佐は、少しだけ眉を上げた。それ以上は何も聞かなかった。
「朝倉三曹」
「はい」
宮原三佐は海の向こうを見たまま、少しだけ声を落とした。霧の壁が、対岸の明かりを全部飲み込んでいた。
「……区域の中は、空爆されるかもしれん。日付はまだ決まっとらん。けど、春まではもたん」
「知っとります。浄化作戦、ですよね」
「……知っとったか。なら、話は早い。それまでに、必ず出てこい」
朝倉さんは、一拍だけ黙った。それから、短く答えた。
「了解しました」
「……で、中に入って、どうするつもりや」
「まず、香椎の避難所に戻ります。松尾たちと、住民の無事を確かめて、そこを拠点にします」
朝倉さんは、透の方をちらりと見た。
「それから、霧島くんの大学へ行きます。林さんに要る機械が、そこにあるそうです」
「……何に使う」
「巣核を止めて、門を閉じる道具を作ります」
宮原三佐は、しばらく黙っていた。
「……聞かんかったことにしとく」
「それと、もう一つ」
宮原三佐は、ようやく朝倉さんの方を向いた。
「お母さんの名前、外の避難者の名簿には、まだ見つからん。……当たり続けとる」
朝倉さんの右手が、小さく握られた。ガラスで切った手の甲の傷は、もう薄い跡になっていた。
「……ありがとうございます」
宮原三佐は、足元の段ボール箱を顎で示した。追加の弾倉と、缶詰と、乾パンと、使い捨てカイロ。いちばん上に、銀色のテープが一巻き乗っていた。
「夜間行動用の反射テープや。霧の中ではぐれんように、使え」
朝倉さんはテープを手に取って、しばらく眺めていた。それから、透の背中に回った。
びり、とテープを切る音がした。
背中に、何かがぺたりと貼られた。
「……またですか、これ」
封鎖線を出たときに、三枚とも剥がしたのに。
「あなたが、どこにおるかわからんけん」
「迷子の名札みたいですね」
「似たようなもんやろ」
千夜が横で吹き出したが、宮原三佐は聞こえなかったふりをして、海の方を向いた。
◇
宮原三佐の話では、霧の向こうの様子がここ一週間で変わっていた。
「門司側から夜ごとに、何かがぶつかる音がする。鉄道のトンネルの出口あたりや。……下関側の出口は、コンテナで塞いだ」
「群れが、こっちに渡ろうとしてるんですか」
美雪さんが聞いた。宮原三佐は、うなずいた。
「偵察を二回出した。二回とも、霧の手前で引き返させた。……中に入って、帰ってこられる保証がなかけん」
透は、二週間前の夜を思い出した。人道トンネルの入口に、伏せていた巨体。首の継ぎ目の奥の、もう一枚の甲殻。
「……たぶん、あいつです」
朝倉さんが、小さくうなずいた。
◇
ポンプ小屋の見張りは、若い隊員が一人だけだった。
宮原三佐が何か耳打ちすると、隊員は敬礼して、小屋の扉に背を向けた。
「今夜は、何も見とりません」
隊員は霧の方を向いたまま、まっすぐに言った。
透は、扉をくぐるとき、小さく頭を下げた。隊員は、気づかなかった。たぶん、最初から最後まで、三人しか通らなかったと思っている。
縦穴の鉄の梯子を下りる。左肩は、もうほとんど痛まなかった。
トンネルの中は、前と同じに暗く、前より冷たかった。
レールの脇を、一列で歩く。先頭が透、次が美雪さん、千夜、最後が朝倉さん。
海底のいちばん深いところで、水が腰まで来た。
千夜の場合は、胸までだった。
「……ちょっと、待って。これ、聞いてない」
千夜が両手を水の上に上げたまま、つま先立ちになっていた。
「背が低いって言わないでよ」
「何も言ってないです」
「顔が言ってる」
透が何か言う前に、後ろから水を分ける音がした。朝倉さんが、何も言わずに千夜の前へ回りこみ、背中を向けて腰を落とした。千夜の腕を自分の肩へ引っぱり、そのまま背負い上げた。
「ちょっ、朝倉さん!?」
「声」
「……おろして」
「深いとこを抜けたらね」
千夜は朝倉さんの背中で、頬を膨らませたまま黙った。耳だけが、暗闇でもわかるくらい赤かった。
美雪さんが、透の隣で小さく笑った。
「……仲が、いいですね」
「本人たちの前では、言わない方がいいと思います」
◇
上り坂が始まって、しばらくしたころだった。
千夜が、不意に足を止めた。トンネルの壁に、手のひらを当てる。
「……待って。この先に、何かいる」
「群喰ですか」
「ううん。大きいのが、一つだけ。……寝てるみたいに、動いてない」
透には、まだ何も聞こえなかった。闇眼で探っても、先は暗いままだった。
甲賀の地聴き。地面や壁を伝わる足音で、人の数と動きを聴き分ける技だと、千夜は言っていた。いま使ったのは、それだろう。
透は、手を上げて三人を止めた。それから、ひとりで前へ進んだ。
音が、した。
トンネルの先から、ゆっくりと重いものが息をする音。甲殻がこすれ合う、乾いた音。
透は、闇眼で出口の方を探った。
トンネルの口の、すぐ外。線路をまたぐように、巨大な影が伏せていた。体高五メートル。岩のような甲殻。頭を、トンネルの中に向けて。
「……大甲」
後から来た朝倉さんが透の肩越しに、ほとんど声にならない声で言った。
「人道トンネルから、こっちに移っとったと」
美雪さんが、壁に手をついて言った。
「群れの、先頭です。……本州へ渡る道を、探しているんだと思います」
透は、大甲の首の付け根を見た。甲殻は、きっちりと重なって閉じている。
伏せている間は、継ぎ目が開かない。
母の声が、頭の中でした。動いとる相手の横に立って、殻が開く瞬間を待つ。
――鎧通し。
「立たせないと、だめです」
透は言った。
「立って、動いて、足に体重が乗った瞬間なら、前脚の継ぎ目に入れられる」
「立たせればいいんでしょ」
千夜がパーカーのポケットから、棒手裏剣を三本抜いた。顔から、表情が消えていた。
「甲喰って、三メートルより遠くは、気配じゃわかんないんだよね」
「はい。音には寄ってきますけど」
「じゃあ、音をあっちこっちから鳴らす。あたしは、三メートルより内側には入らない」
朝倉さんが、小銃の槓桿を静かに引いた。
「脚を斬ったら、どうなると」
「膝をつくと思います。前のめりに」
美雪さんが、早口で言った。
「首が下がれば、首の付け根の殻が引っぱられて開きます。奥も、たぶん」
「そこを、撃つ」
朝倉さんは、トンネルの柱の陰を指さした。出口まで、十メートル。
「私は、あそこから。膝をついたら、三メートルまで詰める」
「三メートルは、近すぎます」
「遠くから撃って、外したら、次はなかろ」
朝倉さんは、ポニーテールを結び直した。
「……行くよ」
◇
千夜の手から、棒手裏剣が飛んだ。最初の一本は大甲の頭の甲殻に当たって、かあん、と高い音を立てた。
大甲の頭が、ゆっくりと持ち上がった。
二本目。線路の向こう側の、鉄の柱。
大甲が、首を振った。伏せていた前脚が、地面を押した。
三本目。トンネルの外の、信号機の箱。
巨体が、立ち上がった。
天井に、背中がこすれる音がした。
透は、もう出口の脇の壁に沿って歩き出していた。
息を殺す。心臓を沈める。
二十。十。八。
消えよう、とは思わない。斬ろう、とも思わない。ただ、そこに立っているだけ。
大甲の右の前脚の横に、透は立った。
脚は、電柱ほどの太さだった。甲殻の板が、何枚も重なっている。その一枚一枚が、透の顔の高さでゆっくりと擦れ合っていた。
かん、と千夜の四本目が、遠くで鳴った。
大甲が、そちらへ一歩踏み出そうとした。
体重が、右の前脚に乗った。
甲殻の板と板が、ほんのわずかにずれた。指一本ぶんの、隙間。その奥に、白っぽい筋が見えた。
小刀が音もなく、その中へ滑り込んだ。
ぶつり、と。
手首に、重い手応えが返ってきた。
大甲の右の前脚が、折れたように曲がった。巨体が、前のめりに傾いた。地面が揺れた。大甲は、膝をついた。
頭が、落ちてきた。
透の目の前を、首の付け根が通り過ぎていった。重なっていた甲殻が、頭の重さに引っぱられて、扇のように開いていく。外の一枚。その奥の、もう一枚。
その奥の、柔らかい、脈打つ肉。
「――朝倉さん」
声に出したかどうか、透にはわからなかった。
柱の陰から、朝倉さんが飛び出していた。
十メートル。七メートル。
三メートル。
朝倉さんは、片膝をついた。銃口が、開いた甲殻の奥を向いた。
乾いた銃声が、三発、トンネルの中に響いた。
大甲の首が、一度だけ跳ね上がった。
それから、ゆっくりと地面に落ちた。
甲殻のこすれる音が、止まった。
◇
しばらく、誰も動かなかった。
最初に口を開いたのは、千夜だった。
「……やった?」
「声」
朝倉さんが、銃口を下げないまま言った。それから、ようやく息を吐いた。
「……やった」
千夜がぱっと顔を輝かせて、透の方へ駆け寄ってきた。
「やったじゃん! 透くん、今の、すごかった。脚、一発で――」
「声」
朝倉さんと透が、同時に言った。
千夜は、両手で自分の口を押さえた。それから、押さえたまま、にっと笑った。
美雪さんがトンネルの壁にもたれて、ずるずると座り込んでいた。
「……心臓が、止まるかと思いました」
透は、小刀の刃を見た。刃こぼれは、なかった。
――母さんに、あとで報告しよう。
遠くで、何かが吠えた。
銃声を聞きつけた群れが、霧の向こうで動き始めていた。
「行くよ」
朝倉さんが、ポニーテールを結び直した。
四人は大甲の亡骸の横をすり抜けて、霧の中へ走り出した。
透の背中で、反射テープが霧のわずかな光を拾って、ぼんやりと光っていた。
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