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第28話 二つの手

第三部からは、一日一話、朝七時公開です。

本日夜七時、三人目の登場人物紹介を行います。

十二月七日。

避難所の周りの霧の中に、見慣れない足跡が増えていた。

校舎の裏手のぬかるみに、軍靴の跡。フェンスの外の側溝に、外国の煙草の吸い殻。夜中、遠くの屋上で一瞬だけ光るレンズ。

「……囲まれとる」

美術準備室の窓際で、朝倉さんが低く言った。

「回収隊。それに、灰鷺。二つとも、林さんを狙っとる」

美雪さんは、膝を抱えて座っていた。顔色が、紙のように白い。

「……私が、ここを出ていけば」

「出ていくなら、ちゃんと準備して逃げましょう」

透は言った。

「どこに、どれだけいて、いつ来るつもりなのか。それがわからないと、どうしようもないです」

「どうやって調べると」

朝倉さんが聞いた。

透は、答えなかった。

朝倉さんは透の顔を見て、何かを察したらしかった。目が、すうっと細くなった。

◇

回収隊は、香椎の外れの閉院した病院にいた。

三階の会議室。窓には目張りがしてあり、机の上に地図が広げられている。黒い装備の男たちが八人。その真ん中に、背の低い痩せた男が座っていた。

頬に古い傷があった。目が細く、表情がない。銃を膝に置いたまま、地図の一点を指で静かに叩いている。

部下の一人が、地図の上に赤い線を引いた。避難所の南の非常階段から、四階の東の教室へ。子どもたちが寝ている部屋だった。

痩せた男の指が、止まった。

男は、何も言わずに、親指でその線の先をこすって消した。それから自分で、三階を経由して教室を大きく避けるように線を引き直した。

部下が何か言いかけたが、男は顔も上げなかった。部下は、口を閉じた。

透は、その横顔を見ていた。

――じいちゃんに、似てる。

顔も、体つきも、まるで似ていない。祖父は無口で、近所の子どもたちには怖い顔のおじいさんだと思われていた。けれど、子どもが自転車で転ぶと、誰より先に走っていって、黙って起こしてやる人だった。

――たぶん、この人が、ここの隊長だ。

天井の点検口の隙間から、透はそれを見下ろしていた。

透の中国語は、大学の第二外国語の授業で止まっている。話の中身は、ほとんどわからない。けれど、地図に引かれた線と、男たちが何度も指さす数字は、わかった。

避難所の南側。非常階段。数字は「2」と「0」。

明日の夜、午前二時。南から。

痩せた男が、一度だけ天井を見上げた。

透は、息を止めた。

男はしばらく天井を見ていたが、やがて視線を地図に戻した。

――……この人、勘がいい。

◇

回収隊には、もう一つの拠点があった。博多港の船を離れて、香椎浜の倉庫に呼び笛の部隊が前線を置いていた。

倉庫の梁(はり)の上から見下ろすと、白髪まじりの大男が、部下たちに中国語でまくし立てていた。博多港の岸壁で、檻の前に立っていた男だ。宋凱だった。机の上には、名島の団地で見たのと同じ黒い箱が、十個以上並んでいる。

「――明日の夜……午前二時……」

宋凱は、黒い箱を一つ持ち上げて笑った。

「……群れ……学校……林博士……追い出す……」

切れ切れの単語でも、机の上の黒い箱を見れば意味はわかった。明日の夜、午前二時。呼び笛で群れを学校へ呼び、逃げ出したところで美雪さんを捕まえる。

――病院の部隊と、同じ時間だ。

群れで学校から追い出して、南で待ち受ける。挟み撃ちにする気だ。

◇

灰鷺は、千早(ちはや)の駅前のビジネスホテルの九階にいた。

隣り合った三部屋を、壁のドアでつないで使っている。男が八人と、ローズ。ベッドの上に、避難所の見取り図が広げられている。見取り図は、驚くほど正確だった。美術準備室の位置まで、赤い丸で囲ってある。

窓際の机で男の一人がヘッドホンをつけて、無線機のつまみを回していた。ヘッドホンから漏れてくるのは、中国語だった。さっき病院の会議室で聞いたのと、同じ声。

――回収隊の無線を、盗み聞きしてるのか。

そういう仕事の人たちなのだろう。それくらいは、やってもおかしくない。

「――中国人……明日……午前二時……群れで……」

男の一人が、英語で言った。

「……やらせておけ。……混乱の中で……女を……」

ローズは窓際に立って、黙って霧の外を見ていた。

男が、彼女に何か聞いた。ローズは肩をすくめて、英語で答えた。

「……はいはい。……どうでもいい」

天井裏の透から見えたローズの横顔は、屋上で見たときよりずっと退屈そうだった。

◇

明日の夜、午前二時。回収隊が、二手から来る。灰鷺は、その混乱を待っている。

美術準備室に戻った透は、床に地図を広げた。

「だったら、回収隊と灰鷺をぶつければいいです」

「ぶつける?」

「回収隊は、呼び笛で群れを学校へ呼んで、逃げ出した美雪さんを、南で捕まえる気です。灰鷺は、その混乱の中で横取りする気でいる」

透は地図の上で、香椎の外れの病院を指でつついた。

「灰鷺に、回収隊がもう美雪さんを捕まえたと思わせます」

「どうやって」

「灰鷺は、回収隊の無線を盗み聞きしてます。そこに、偽の報告を流すんです。『科学者を確保した。病院に移した。明日の朝、船で運び出す』って。……中国語で」

「回収隊にも、聞こえるやろ」

朝倉さんが言った。

「聞こえます。でも、それでいいんです。身に覚えのない報告が流れたら、回収隊はまず、その中身を確かめるはずです。事実確認が済むころには、もう灰鷺の襲撃が始まってます」

透は、美雪さんを見た。

横取りできる獲物が、朝には船で運び出される。そう聞けば、灰鷺は今夜のうちに病院を襲うしかない。

美雪さんは、しばらく黙っていた。それから、膝を抱えていた腕をほどいた。

「……やります。中国語なら、私にしかできませんから」

◇

その夜、透はもう一度、千早のホテルの天井裏に上った。

美術準備室では、美雪さんが、透が病院から持ち出してきた回収隊の予備の無線機を握っているはずだった。打ち合わせた時刻は、午後十一時ちょうど。

十一時。ヘッドホンをつけた男が、ふいに顔を上げた。ヘッドホンを外し、机のスピーカーにつなぎ直す。

ノイズの向こうから、細切れの中国語が流れ出した。男の声とも女の声ともつかない。ただ、落ち着いた、事務的な声だった。同じ言葉を二度くり返して、途切れた。

男が紙に何かを書きつけて、ローズたちに見せた。部屋の空気が変わった。

部屋の中が、急に慌ただしくなった。男たちが、銃と装備をまとめ始める。ローズだけが窓際で、ほんの少しだけ眉をひそめていた。

行き先は、香椎の外れの病院だった。

◇

十二月八日、午前零時を少し過ぎたころ。

香椎の外れで、群れが鳴いた。

病院の周りに、銃声に呼ばれた群喰が何十体も押し寄せていた。中から、回収隊の銃声が聞こえる。それに応えるように、灰鷺の銃声が鳴る。中国語と英語の怒鳴り声が、霧の中で混じり合った。

避難所の屋上で、朝倉さんは耳を澄ませていた。霧の向こう、香椎の外れの方角から銃声がかすかに届いてくる。

「……あっちで、勝手にやり合いよる」

「たぶん、二、三日は、こっちに来る余裕はないと思います」

透は、屋上の手すりに寄りかかっていた。

朝倉さんは、しばらく黙って病院の方を見ていた。それから、透の方を向いた。

「……霧島くん」

「はい」

「今回のことは、助かった。けど、敵のど真ん中に一人で乗り込むような真似は、許しとらんけんね」

「見つからないんで、大丈夫です」

「そういう問題やなか」

朝倉さんはそう言って、透の頭を軽くはたいた。

お読みいただきありがとうございます。

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