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第27話 取引

第三部からは、一日一話、朝七時公開です。

夜七時に挿絵付きの登場人物紹介を公開します。

十二月六日。夜。

屋上の給水塔の下に、ヴィッキーさんが座っていた。

毛布を肩にかけ、両手で紙コップのコーヒーを包んでいる。霧の向こうの街を眺めながら、誰に言うでもなくのんびりと声を上げた。

「影法師くーん。おるっちゃろー?」

屋上には、誰もいなかった。少なくとも、そう見えた。

「出てこんとねえ、葵ちゃんに、こないだの覗きのこと、ぜーんぶ話すよー。白い息が、ふわーって出とったこと」

「……何の用ですか」

給水塔の裏から、透は出ていった。

ヴィッキーさんは、振り向きもせずに笑った。

「やっぱりおった。ほら、座り」

彼女は、自分の隣の毛布をぽんぽんと叩いた。透は、二メートル離れたところに座った。

「遠かあ」

「適正距離です」

◇

「改めまして」

ヴィッキーさんは、コーヒーを一口飲んでから言った。

「アメリカの、グレイ・ヘロン。灰鷺(はいさぎ)って書いて、はいさぎ。表には出ん仕事をする班の、いちばん下っ端。コードネームは、ローズ」

「……留学生じゃなかったんですね」

「九大に一年おったのは、ほんと。博多弁も、寮のおばちゃんに仕込まれたのはほんと。嘘は、ちょっとだけ」

「ちょっとって、どのくらいですか」

「名前と、職業と、ここに来た理由くらい」

「全部じゃないですか」

ローズは、楽しそうに笑った。それから毛布の端を持ち上げて、透の方へにじり寄ってきた。二メートルが、一メートルになり、三十センチになった。

肩が触れた。

「寒いけん、くっつこ」

「寒くないです」

「あたしが寒いと」

ローズの指が透の膝の上に、そっと置かれた。毛布の下で、その指がゆっくりと腿の方へ這い上がってくる。

透の心臓が、少しだけ速くなった。けれど、それだけだった。

ローズは透の顔を下から覗き込んで、それからふくれっ面をした。

「……ちょっとしか乱れんねえ。あたし、自信なくすわ」

「用件は」

「冷たーい」

◇

ローズは、膝から手を離した。顔から、笑みが少しだけ引いた。

「取引しよ、影法師くん」

「……取引」

「アメリカに来て。あんたのその技、うちの国がほしがっとる。誰にも気づかれずに、どこにでも入れて、何でも見て帰ってこれる人間。そんなの、世界中どこ探してもおらんけん」

「僕、覗きしかしてませんけど」

「それが一番ほしいと」

ローズは、霧の街を指さした。

「来てくれたら、福岡の人たちの救出を優先させる。あたしの上の人間に、ちゃんとそう約束させる。ヘリは無理だけど、船も、薬も。あんたが一人ずつ運ばんでも、まとめて運べる」

透は、黙った。

霧の底に、香椎の街が沈んでいる。その中に、名島の団地があり、呉服町のビルがあり、天神の雑居ビルがある。窓の内側で、息を殺している人たちがいる。

一人ずつ運ぶのには、限界がある。それは、透が一番よく知っていた。

長い沈黙があった。

「……少し、考えてもいいですか」

「いいよ。三秒あげる」

「短いです」

「冗談。いくらでも」

透は、霧の街を見た。それから、ゆっくりと首を振った。

「……やめときます」

「三秒やん。それで、なんでなん」

「研究対象ですよね? 僕、大勢に見られるの苦手なんで」

ローズは、一瞬きょとんとした。

それから、声を殺して笑い出した。毛布の中で、肩を震わせて。

「……そっか。そやね。あんたはそうやろね」

彼女は、目尻の涙を指で拭った。

「でも、覚えといて。あたし、狙った男は逃がさんとよ」

「狙わないでください」

「もう遅か」

ローズは透の頬に、ふいに唇を寄せた。触れたかどうかわからないくらい、軽く。

透の心臓は、やっぱり少し速くなっただけだった。

「……ほんっとに、腹立つ」

◇

透が屋上を去ったあと、ローズは小さな機械を耳に当て、英語で話し始めた。

「――ローズ。……断られた」

機械の向こうで、男の声が何か言った。

「……ええ、わかってる。……なら、プランBで」

ローズは、霧の向こうの校舎の窓を見た。美術準備室の小さな明かり。

「……科学者を」

その声には、もう笑いは混じっていなかった。

◇

「……ヴィッキーさん、アメリカのスパイでした」

翌朝、美術準備室で透は報告した。前に塩崎の件で、黙っていて怒られたことを一応は覚えていた。

朝倉さんは、小銃を拭く手を止めなかった。

「知っとった」

「……え」

「霧島くんが、足音と拳のこと言いよったやろ。あれから、ずっと見とった。あの人、私の小銃を見るとき、いつも安全装置の位置を確かめとる。素人は、そんなとこ見らんけん」

「言ってくださいよ」

「霧島くんこそ。昨日の夜、屋上で何話しよったと。ずいぶん仲良さそうやったけど」

「覗きですか」

「違う。監視」

透は、少し考えた。

「……アメリカに来ないかって、誘われました。行けば、福岡の救助を優先してくれるそうです」

朝倉さんの手が、止まった。

「断りました。見られるの苦手なんで」

朝倉さんの手は、止まったままだった。

しばらくして、小さく息を吐いた。

「……そればっかりやなかろ」

透は、答えなかった。

「来る気があるなら、とっくに来とるもんね。自衛隊でさえ、まだ誰も助けに来とらん。よその国が、命がけで霧の中に入ってくるわけなか」

透は、窓の外の霧を見ていた。

「霧島くんを連れて行ったら、それで終わり。約束なんか、守る理由もなくなる。……それがわかっとるけん、断ったっちゃろ」

「見られるのが苦手なのは、本当です」

朝倉さんは、それ以上は聞かなかった。また小銃を拭き始める。さっきより、少しだけ手の動きが速かった。

「それと、たぶん、本当の狙いは美雪さんです」

部屋の隅で、美雪さんが顔を上げた。


お読みいただきありがとうございます。

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