6 失われた記憶
「私の妻ヨハンナは、自分の幼い時のことを覚えていないんです。
産まれた場所のことも、家族のことも。」
シュナイダー氏は静かな声でカメリアと私に語りかける。
シュナイダー氏がカメリアに相談したかったことは、妻のヨハンナの過去であった。
「ヨハンナはもともと私の伯父夫婦に引き取られた養子でした。
それまでヨハンナは、孤児院にいたのです。」
シュナイダー氏は孤児院の職員から聞いたヨハンナの過去を話した。
22年前、ヨハンナは兄に連れられて孤児院に現れた。
彼らはたった2人きりで孤児院までやってきたのだ。
暗い顔の兄妹は、2人とも口が聞けなかったのだという。
「あまりにつらい目に遭って心に傷を負うと、一時的に話せなくなってしまうことがあるそうですね。
ヨハンナもそうだったんだと思います。」
職員たちは兄妹がどこから来たのか、親はどうしたのか、確かめることはできなかった。
その後、2人は別々の家庭に引き取られた。
ヨハンナはシュナイダー氏の伯父夫婦のもとで、少しずつ表情が明るくなっていった。
しかし、ヨハンナは話すことができるようになっても、彼女がどこから来たのかはわからなかった。
ヨハンナは記憶を失っていたのだ。
「きっとトラウマから心を守るために、記憶に鍵をかけてしまったんでしょう。
ヨハンナは孤児院にたどり着くより前のことを、さっぱり思い出せないんだそうです。
兄のこともぼんやりとしか覚えておらず、顔もわからないんだと言います。」
心優しく、ほがらかな女性に成長したヨハンナは、シュナイダー氏と夫婦になった。
それからずっと、シュナイダー氏は妻を案じていた。
けれどもヨハンナが記憶を取り戻すことはなかった。
ところが、シュナイダー夫妻が偶然お菓子の家の近くを通りかかったとき、ヨハンナに変化が起こる。
「妻はお菓子の家をひどく怖がったのです。
それでいて、なかなか屋敷から離れようとしなかった。
とても大切なことを忘れている、と言うのです。」
ヨハンナが過去に関することを口にしたのははじめてだった。
以来ヨハンナは以前よりも積極的に過去を思い出そうとした。
だからシュナイダー氏は妻のために、このお菓子の家を買い取ることを決めたのだ。
「聞くところによれば、屋敷の持ち主だったミュラー夫人は貧しい人々を助けていたのでしょう?
妻も、幼いときにミュラー夫人に招かれたことがあったんじゃないかと思うのです。」
シュナイダー氏は「ヨハンナが記憶を取り戻して兄と再会することを、私は願っているんです。」と言った。
私はカメリアに、「ヨハンナ様はあの屋敷で恐ろしい目にあい、逃げ出したのでしょうか。」と囁いた。
カメリアは「ヨハンナ様の記憶が戻らない限り、確かめようがありませんわ。」と眉根をよせた。
翌朝、事件は思わぬ展開を見せる。
シュテルンベルク公爵邸の電話が鳴ったのは、私がカメリアの朝の紅茶を用意していたときだ。
受話器の向こうから、「おはようございます、ヒルダさん。」というスタンフォード警部補のアルトが聞こえた。
「昨日地下室で見つけた納品先のリストを覚えていますか。」
「はい。
マイヤー、ブラウン、ダグラスという3人の名前が書かれていた物ですね。」
「我々はリストに書かれてた人物を捜索しました。」
スタンフォード警部補は、「3人の身元は特定できたのですが…。」とその先を躊躇う。
厳格な態度を崩さない彼女には珍しいことだった。
「マイヤー、ブラウン、そしてダグラスは3人とも、昨夜の間に殺されていたのです。」




