第六話 ゼロの衝動
北門前の広場は、すでに訓練場ではなく戦場だった。崩れた石壁、舞い上がる土煙、逃げ遅れた生徒たちの悲鳴。黒い霧から生まれた巨獣は、四足で地面を砕きながら一直線に突進してくる。口元から漏れる黒炎が石畳を焦がし、そのたびに空気が焼けるような臭いが広がった。
ノエリアは走っていた。
自分でも、なぜ走っているのか分からない。
考えるより先に体が動いた。ただ、あの進行方向に避難途中の生徒たちがいる。それだけが頭の中を占めていた。
「ノエリア、戻れ!」
グレタの声が背後から飛ぶ。
だが、もう止まれない。
ハイジが目を見開く。
「おい、あいつ!」
フィアは驚きながらも、すぐに周囲の生徒を下がらせていた。
「みんなこっちだよぉ、急いでぇ」
混乱の中でも、彼女の声だけは不思議と耳に入る。
前線ではダニーが倒れた仲間を庇いながら立ち上がろうとしていた。ジェイドは別の闇獣二体を相手にしており、すぐには動けない。エイミーも大型個体の迎撃で距離が離れている。
つまり、今この一瞬だけ、穴が空いていた。
ノエリアは避難途中の下級生二人の前へ飛び出した。
「は、早く逃げて!」
泣きそうな声だった。だが二人はその声で我に返り、転びそうになりながら横へ走る。
その直後、巨獣の影が覆いかぶさった。
(終わった)
本気でそう思った。
咄嗟に木剣を前へ出す。朝の授業で使った訓練用の木剣だ。こんなものが役に立つはずもない。
それでも、何も持たずに立つよりましだった。
巨獣の爪が振り下ろされる。
その瞬間、胸の奥が熱を持った。
ドクン、と強く脈打つ。
視界の色が変わる。周囲の音が遠のき、巨獣の動きだけがやけに鮮明に見えた。振り下ろされる爪の軌道、踏み込みの癖、重心の流れ。分かるはずのないものが、なぜか分かった。
ノエリアの体が半歩ずれる。
爪が髪先をかすめ、地面へ突き刺さった。
「……え?」
自分でも理解できない。
そのまま木剣を振る。力任せでも、形もない一撃。だが木剣の先端に、淡い桃色の光が宿った。
コン、と小さな音。
巨獣の鼻先へ当たる。
たったそれだけだった。
しかし巨獣はわずかによろめき、顔を上げて吠えた。ノエリアの一撃を“敵”として認識したのだ。
周囲の生徒たちが息を呑む。
「今、光ったぞ」
「ノエリアが?」
「適正値ゼロじゃ……」
ノエリア本人が一番驚いていた。
(い、今のなに……!?)
だが考える暇はない。巨獣は怒り、標的を完全にノエリアへ変えた。
黒炎が口内に集まる。
「危ない!」
誰かの声。
逃げなければいけないのに、足がすくむ。
そのとき、青い影が割り込んだ。
ダニーだった。
「無茶すんな、バカ!」
拳を地面へ叩き込み、衝撃波で黒炎の軌道を逸らす。炎は横の石壁へぶつかり、爆ぜた。
続けて金の閃光が走る。
ジェイドが巨獣の側面へ入り、脚関節を斬りつける。巨獣が体勢を崩した。
「下がれ、ノエリア」
短い声。だが強い。
ノエリアはようやく息を吸い、後退する。足が震えていた。
「ご、ごめ……」
「謝るな」
ジェイドは視線を前へ向けたまま言う。
「助けたかったんだろ」
その言葉に、胸が詰まる。
ダニーが振り返って笑う。
「でも次からは、俺たち呼べ!」
そんな軽口を叩きながらも、額には汗が滲んでいる。余裕があるわけではない。
巨獣が再び立ち上がる。
そこへ赤い閃光が降った。
エイミーだった。
彼女は空中から一直線に剣を振り下ろし、巨獣の背中を断つ。黒い体が裂け、絶叫が響く。
「Bクラス、退避。ここは私が受け持つ」
有無を言わせぬ声だった。
ジェイドとダニーは即座に従い、距離を取る。エイミーの実力と判断を信じているからこその動きだ。
アンナとウィリアムも到着し、左右へ展開する。
アンナは光の札を広げ、周囲の小型闇獣を封じ込める。
「近寄らんといてなぁ」
柔らかな口調なのに、結界は鋭かった。
ウィリアムは眼鏡を押し上げながら術式陣を展開する。
「核位置固定。会長、三秒です」
「十分よ」
エイミーが踏み込む。
その一撃は、ノエリアの目にも分かるほど洗練されていた。無駄がなく、美しく、強い。巨獣の胸部にある核を正確に断ち切る。
黒い体が崩れ、霧となって消えていった。
戦場に一瞬の静寂が落ちる。
やがて歓声が上がった。
「すげぇ……!」
「Aクラス……!」
ノエリアも呆然と見つめる。
(同じ一年生……?)
差を見せつけられた気がした。けれど、悔しさより先に憧れがあった。
エイミーは歓声など気にも留めず、ノエリアの方を一度だけ見る。
その視線には責める色も、優しさもなかった。ただ、確かめるような静かな目だった。
すぐに背を向け、次の戦線へ向かっていく。
グレタが駆け寄ってきた。
「ノエリア」
低い声に、ノエリアは身を縮める。
「……すみません」
「後で叱る」
厳しい口調だった。
だが続く言葉は予想外だった。
「今は、生きていてよかった」
ノエリアは顔を上げる。グレタはすでに負傷者の方へ向かっていた。
ハイジが駆け寄り、肩を掴む。
「お前、何してんだよ!」
怒っているのに、目は少し潤んでいる。
「ご、ごめん……」
「でも」
ハイジが口元を歪める。
「ちょっとかっこよかった」
フィアものんびり近づいてきて、ノエリアの袖を払った。
「ほこりだらけだねぇ」
その一言で、張りつめていたものがほどける。
ルークは震えながらも言った。
「す、すごかったです……」
マルクも短く頷く。
「無茶だが、勇気はあった」
ノエリアは何も返せなかった。
胸の奥にまだ熱が残っている。さっき光った感覚。あれは偶然ではない気がした。
そのとき、再び鐘が鳴る。
今度は警戒解除の合図だった。
敵襲は退けられたのだ。
生徒たちから安堵の声が漏れる。泣き出す者、座り込む者、笑い合う者。初めての実戦に、多くが心を揺さぶられていた。
グレタはDクラス五人を集める。
「今日の授業は終了。だが、これがこの学園の日常だ」
誰も軽くは受け取れなかった。
「お前たちはまだ候補生だ。だが、いつか必ず現場へ立つ。その覚悟を持て」
ハイジは真っ直ぐ頷く。フィアも珍しく真面目な顔をしていた。ルークは青ざめながらも、逃げなかった。マルクは無言で腕を組む。
そしてノエリアは、自分の手を見る。
さっき巨獣へ向けた木剣。その先端に宿った、淡い桃色の光。
適正値ゼロ。
最底辺。
何もないはずの自分の中に、確かに何かがある。
その夜、寮の部屋で一人になってからも、胸の鼓動は静まらなかった。
窓の外では、学園の修復作業の灯りが揺れている。
そして、誰もいないはずの部屋の隅で。
小さな光が、ほんの一瞬だけ瞬いた。




