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『適正値ゼロのリミィジュ』(完全版)  作者: 柑橘みかん


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第五話 はじめての敵

中庭に落ちたスプーンが、乾いた音を立てた。


その小さな音さえ、やけに大きく聞こえるほど周囲の空気は一変していた。さっきまで昼休みの賑やかさに包まれていた学園が、わずか数秒で戦時の顔へ変わっていく。上級生たちは迷いなく立ち上がり、教師の指示に従って持ち場へ走り出していた。


ノエリアは固まったまま動けない。


(敵襲……?)


頭では言葉の意味が分かっている。けれど、それは遠い世界の話だった。教科書の中で読むもの。ニュース映像の向こう側で起きるもの。自分が今いる場所へ、本当に来るなど想像したこともなかった。


グレタが鋭い声を飛ばす。


「Dクラスは私についてこい! 前線には出さない!」


その一言で、ノエリアの足がようやく動いた。ハイジはすでに立ち上がって拳を握っている。


「前線じゃないのかよ!」


「一年Dクラスが出て何になる」


グレタの返答は冷静だった。


「まずは生き残れ。それも訓練だ」


ハイジは不満げに舌打ちしたが、従わないほど子どもでもない。フィアは慌てず弁当箱を閉じている。


「スープこぼれなくてよかったぁ」


この状況でもいつも通りで、ノエリアは少しだけ息がしやすくなった。


ルークは青ざめ、マルクは無言で立ち上がる。五人はグレタの後を追い、中庭から校舎裏の通路へ移動した。


走りながら、学園の構造が見えてくる。グランドフォール学園は中央塔を中心に、東西南北へ校舎棟と訓練区画が広がる城塞型の施設だった。外周には結界塔が複数配置され、普段は外敵を寄せ付けない。しかし今、そのどこかが破られている。


遠くから鐘と警報が重なる。


空が、少し暗い。


ノエリアが見上げると、北側の森の上空に黒い霧のようなものが渦巻いていた。昼なのに、そこだけ夕暮れのように濁って見える。


「あれが……」


「闇獣だ」


グレタが短く答える。


「人の絶望や憎しみを核にして生まれる災厄。敵組織がそれを操っている」


ノエリアの背筋が冷える。


教科書で見た絵より、ずっと生々しかった。


北棟の裏手へ着くと、そこにはすでに避難誘導の生徒たちが集まっていた。Cクラスの上級生たちが一般生徒を地下シェルターへ案内し、Bクラスが外周防衛線へ向かっている。


ここで学園内の役割分担が、はっきり見えた。


Cクラスまでは候補生。支援・補助・避難誘導などが中心。Bクラスから正規リミィジュとして実戦参加が許可される。Aクラスは少数精鋭、最前線の切り札だ。


グレタがDクラスの五人へ向き直る。


「お前たちはここで負傷者対応と連絡補助だ。勝手に前へ出るな」


ハイジが即座に不満顔になる。


「戦えるのにか?」


「今のお前は“戦いたいだけ”だ」


グレタの言葉に、ハイジは黙った。


図星だったのだろう。


ノエリアはそのやり取りを見ながら、教師としてのグレタの信頼感を初めて感じた。厳しいが、誰かを見下してはいない。


そのとき、地面が揺れた。


ドォン――!


遠くから爆発音が響く。校舎の窓ガラスが震え、悲鳴が上がる。


「外周第一壁、接触!」


誰かが叫ぶ。


北門の向こうに、巨大な影が見えた。四足獣のような黒い怪物。全身が煙のような質感で、目だけが赤く光っている。大きさは馬ほどもある。


ノエリアの喉が鳴る。


(あんなのと戦うの……?)


次の瞬間、青い光が走った。


Bクラス部隊が到着したのだ。先頭にはジェイド。剣を抜き、無駄なく駆ける。隣ではダニーが拳を構え、大声で突っ込んでいく。


「うおおおお!」


「前に出すぎだ」


ジェイドが呆れながらも横につく。


怪物が爪を振り上げる。ダニーは真正面から踏み込み、拳で打ち返した。衝撃で怪物がよろめく。そこへジェイドの剣閃が走る。黒い核が断たれ、怪物は霧となって散った。


ノエリアは息を呑む。


今朝、廊下で騒いでいた二人が、別人のようだった。


ダニーは笑って振り返る。


「見てたかー!」


「集中しろ」


ジェイドの冷静な声が飛ぶ。


そのやり取りに少し安心した直後、さらに空気が張り詰める。


北門上空に赤い光が走った。


Aクラスだ。


エイミーが先頭で降り立つ。金色の剣を抜き、迷いなく前へ進む。アンナは結界札のような光を展開し、周囲の進路を制御。ウィリアムは後方から広範囲の拘束術式を組み上げる。


三人が現れただけで戦場の流れが変わった。


新たに現れた大型闇獣が突進する。エイミーは真正面から迎え撃ち、一撃で斬り裂いた。黒い体が左右に割れ、霧となって消える。


ノエリアは言葉を失う。


(……強い)


同じ新入生とは思えない。


ハイジも悔しそうに歯を食いしばっている。


「くそ……」


その横顔には、単なる反抗心ではなく、本気で追いつきたいという熱があった。


だが、その優勢も長くは続かなかった。


森の奥から、次々と黒い霧が湧き上がる。小型、中型、大型。数が多すぎる。


ウィリアムが険しい顔になる。


「想定以上です」


アンナが結界を広げながら叫ぶ。


「数押しやな!」


エイミーは振り返らず命じた。


「Bクラスは左右展開! Cクラスは避難完了後に補助線へ!」


その声に迷いはない。


指揮官として完成されていた。


グレタがDクラスへ向く。


「ここから負傷者搬送だ。ノエリア、フィアは救護室への導線確保。ハイジ、マルクは担架補助。ルークは伝令」


「え、私が……?」


ノエリアが戸惑うと、グレタは鋭く見る。


「役に立てるかではない。今やるんだ」


その言葉に、ノエリアは背筋を伸ばした。


「……はい!」


走る。


怖い。でも、足は動く。


北棟入口まで負傷したCクラス生徒を運ぶ。腕に傷を負い、顔を歪めている先輩へ肩を貸すと、その人は苦笑した。


「ありがと、後輩」


その一言で、胸が熱くなる。


自分にもできることがある。


フィアは周囲をよく見て、混乱した生徒たちを落ち着かせていた。


「こっちだよぉ、ゆっくりねぇ」


声が柔らかいだけで、人は安心するのだとノエリアは知った。


ハイジは担架を担ぎながらも前線をちらちら見ている。


「くそ、戦いてぇ……」


それでも任された仕事は投げ出さない。


各々が、自分の役割を果たしていた。


そのとき、再び爆音が轟いた。


北門の壁が崩れる。


煙の向こうから、今までより一回り大きな闇獣が姿を現した。全身に棘をまとい、口から黒炎を漏らしている。


Bクラスの一隊が吹き飛ばされる。


ダニーが立ち上がるが、間に合わない。


エイミーが駆ける。しかし距離がある。


その巨獣の進行方向には――避難途中の生徒たちがいた。


悲鳴が上がる。


ノエリアの視界が狭まる。


誰かが助けなければならない。


でも、Aクラスがいる。Bクラスもいる。自分が出る場面ではない。


そう思うのに、足が勝手に前へ出ていた。


「ノエリア!」


グレタの声が背後から飛ぶ。


止まれなかった。


胸の奥で、あの小さな鼓動が強く脈打つ。


まるで、今だと言うように。

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