第三十五話 迫る黒い波
禁書塔を飛び出した瞬間、学園全体の警報が鳴り響いていた。
重く響く鐘の音。
赤く染まる結界灯。
空を飛び回る伝令妖精たち。
先ほどまでの静かな放課後は消え去り、学園は完全な戦時態勢へ移行していた。
ノエリアたちはゴードンに続いて中央塔の展望回廊へ向かう。
階段を駆け上がりながら、ノエリアの心臓は激しく脈打っていた。
二百以上。
今までの襲撃とは規模が違う。
しかも先頭にいるのはエスター。
嫌な予感しかしなかった。
展望回廊へ出た瞬間、その理由が分かった。
遠くの平原。
学園を守る巨大結界の外側。
黒い軍勢が地平線を埋め尽くしていた。
ノエリアは息を呑む。
まるで黒い海だった。
闇魔物。
闇リミィジュ。
巨大な怪物。
そして空には飛行型魔物の群れ。
前回の防衛戦とは比較にならない。
「うそ……」
隣でフィアも青ざめていた。
ハイジでさえ表情を引き締める。
ダニーが無意識に拳を握る。
ジェイドは静かに敵陣を観察していた。
そして。
軍勢の最前列。
そこに立つ一人の少女。
黒い制服。
長い黒髪。
赤い瞳。
エスター。
風に髪を揺らしながら、ただ静かに学園を見つめていた。
その姿は敵軍の中心にいるのに、どこか孤独に見えた。
「お姉ちゃん……」
エイミーの声が震える。
ゴードンは杖を握ったまま動かない。
その横顔には珍しく焦りが浮かんでいた。
「早すぎる」
誰にも聞こえないほど小さな呟き。
ノエリアだけが耳にした。
早すぎる。
つまりゴードンは、この戦いが来ることを予想していたのだ。
ただし、もっと先だと思っていた。
それが今来てしまった。
アンナが低く言う。
「学園長」
「分かっとる」
ゴードンの目は敵軍のさらに後方を見ていた。
ノエリアも目を凝らす。
だが見えない。
それでも。
何かいる。
とてつもなく嫌な気配だけは感じた。
ベルが震えていた。
『いる』
「誰が?」
『あいつ』
ベルの声はかすれていた。
『闇学園長』
その名前を聞いた瞬間、ノエリアの背筋が凍る。
姿は見えない。
それなのに存在だけが伝わってくる。
まるで巨大な影が世界を覆っているようだった。
その時。
エスターがゆっくりと前へ出た。
軍勢の先頭。
結界の目前。
そして静かに右手を上げる。
全軍が止まった。
二百を超える軍勢が一瞬で静まり返る。
その統率力だけで、彼女が特別な存在だと分かる。
エスターは結界越しに学園を見る。
そして。
視線が止まる。
ノエリアだった。
遠すぎる。
本来なら見えるはずもない。
それでも確信できた。
見られている。
エスターの瞳が微かに揺れる。
次の瞬間だった。
「ノエリア!!」
エイミーの叫び声。
振り向く。
エイミーが走っていた。
展望回廊を。
学園の出口へ向かって。
「会長!?」
アンナが叫ぶ。
ウィリアムも追いかける。
だが間に合わない。
エイミーは飛び出していた。
学園正門。
結界の前。
誰より先に。
「お姉ちゃん!!」
その声が平原へ響く。
全員が息を呑む。
エスターが顔を上げる。
姉妹の視線が交わる。
何年ぶりなのだろう。
十五年。
いや。
もっと長く感じていたかもしれない。
エイミーは震えていた。
それでも叫ぶ。
「帰ってきて!!」
涙声だった。
生徒会長ではない。
一人の妹だった。
「お願いだから!!」
風が吹く。
黒い髪が揺れる。
エスターは黙っていた。
何も言わない。
それでもその瞳だけが揺れている。
ノエリアは初めて見た。
あのエスターが。
苦しそうな顔をしている。
エイミーは続ける。
「ずっと待ってた!!」
「みんな待ってた!!」
「私は諦めてない!!」
平原に響く声。
学園中が聞いていた。
教師も。
生徒も。
闇の軍勢も。
誰一人言葉を発しない。
そして。
エスターが口を開く。
本当に小さな声だった。
「……エイミー」
その名前を呼んだだけ。
それだけなのに。
エイミーの瞳から涙が溢れた。
生きていた。
ちゃんと覚えていた。
それだけで十分だった。
だが。
次の瞬間。
空気が変わった。
黒い霧。
エスターの背後。
そこから一人の男が現れる。
穏やかな笑顔。
優しそうな顔。
なのに見た瞬間、本能が危険だと叫ぶ。
闇学園長だった。
ベルが悲鳴を上げる。
『下がって!!』
ノエリアの足が震える。
男は笑っていた。
まるで久しぶりの友人に会ったように。
そして。
真っ直ぐノエリアを見る。
「初めまして」
優しい声。
それなのに恐ろしい。
「やっと会えたね」
ノエリアは息ができなくなる。
男は続ける。
「君を迎えに来た」
その瞬間。
学園全体の空気が凍りついた。




