第三話 最初の一歩
訓練場に集まった新入生たちの視線が、一斉にノエリアへ注がれていた。
朝の空気はまだ冷たい。広い石造りの訓練場には円形の模擬戦スペースがいくつも並び、その周囲を上級生や教師たちが囲んでいる。木剣の擦れる音、誰かの緊張した呼吸、ざわめきを含んだ期待の声。その中心に、自分が立たされている現実が信じられなかった。
(む、むり……)
足が少し震える。
グレタ教師は名簿を見たまま、淡々と続ける。
「対戦相手は――ジェイド」
ざわめきが一段大きくなった。
「Bクラスの?」
「初日から差ありすぎだろ」
「ゼロ相手に?」
ノエリアの顔色がさらに悪くなる。
さっき食堂で会った金髪の少年――ジェイドが静かに前へ出た。青制服の胸元にはシルバーバッジ。姿勢に隙がなく、歩くだけで周囲の空気が整うような落ち着きがある。
ジェイドは木剣を受け取り、指定位置へ立つ。ノエリアの方を見ても、からかう様子も驕る様子もなかった。
ただ、静かだった。
「え、えっと……よろしくお願いします……」
ノエリアは木剣を受け取りながら、ぺこりと頭を下げる。
「よろしく」
短い返事だった。
ハイジが後方から腕を組んで叫ぶ。
「ノエリア! とりあえず突っ込め!」
「無責任だよぉ」
フィアがのんびり止める。
ダニーはその横で楽しそうに笑っていた。
「ジェイド、手加減しろよー!」
「黙ってろ」
グレタが一歩前へ出る。
「模擬戦に勝敗はある。だが、それ以上に見るのは姿勢だ。始め」
乾いた声と同時に、二人の間に静寂が落ちた。
ノエリアは木剣を構える。
……つもりだったが、構え方すらよく分からない。腕が変に上がり、足幅も中途半端で、自分でも危なっかしいと分かる。
ジェイドは正面に立ったまま動かない。
(来ないの……?)
いや、来れないのは自分だ。
周囲の視線が痛い。
(何かしなきゃ)
ノエリアは意を決して、小さく声を上げながら前へ出た。
「え、えいっ!」
木剣を振る。
だが振りかぶりが大きすぎた。重心が流れ、軌道も丸見え。ジェイドは半歩横へずれ、軽く木剣を添えるだけでそれを流した。
「きゃっ!」
勢い余って前のめりになる。
転ぶ、と思った瞬間、ジェイドが片手で肩を支えた。
「足元」
「す、すみません!」
反射的に謝る。
訓練場のあちこちから笑いが起きた。
ノエリアの顔が真っ赤になる。
(もうやだ……)
グレタの声が飛ぶ。
「止まるな、続けろ」
ノエリアは唇を噛む。
悔しかった。
弱いのは知っている。できないのも知っている。笑われるのも慣れている。
それでも、こんなに何もできない自分を見せつけられると、胸の奥が痛んだ。
もう一度、構える。
今度は少しだけ慎重に前へ出る。
ジェイドの目がわずかに変わった。さっきよりも、ちゃんと見ている。
ノエリアは踏み込む。
振る。
また受け流される。
それでも止まらず、もう一度振る。さらにもう一度。形は滅茶苦茶だが、さっきより前へ出ている。
ジェイドが初めて木剣を打ち返した。
コン、と軽い音。
ノエリアの木剣が弾かれ、手から飛ぶ。
「あっ……」
木剣が地面に転がる。
勝負は明らかだった。
だがグレタはすぐに終了を告げなかった。
「拾え」
ノエリアは顔を上げる。
「……え?」
「まだ終わっていない」
厳しい声だった。
周囲の空気が少し変わる。
ノエリアは慌てて木剣を拾う。手が震えている。腕も痛い。恥ずかしさで泣きそうだった。
それでも、立つ。
ジェイドはその様子を黙って見ていた。
ノエリアは小さく息を吸う。
(逃げたい)
本音だった。
(でも……)
ここで下を向いたら、本当に何もないまま終わる気がした。
ゆっくり構える。
ジェイドが初めて、自分から前へ出る。
速い。
反応できない。そう思った瞬間、ノエリアの体が勝手に動いた。
木剣を横に出す。
ガン、と音が響いた。
受けていた。
本人が一番驚く。
ジェイドの目もわずかに見開かれる。
ノエリアの胸の奥で、何かが小さく脈打った。
昨日、壇上で感じたあの感覚。
懐かしいような、あたたかな光。
一瞬だけ、視界が澄んだ気がした。
「……もう一回!」
自分でも驚くほど大きな声が出る。
そのまま前へ踏み込む。振る。ぎこちない。荒い。けれど、さっきまでとは違った。
ジェイドが受ける。
今度は、少しだけ重かった。
ダニーが声を上げる。
「おっ」
ハイジがにやりと笑う。
「いいじゃん!」
フィアはぱちぱちと手を叩く。
「がんばれぇ」
ノエリアは必死だった。
何が起きているのか分からない。ただ、今なら少しだけ前へ行ける気がした。
もう一度振る。
だが、そこで感覚は途切れた。
ジェイドの木剣が正確に入り、ノエリアの手元を打つ。
痛みで手が緩み、木剣が再び落ちる。
今度こそ、終わりだった。
グレタが告げる。
「そこまで」
静寂のあと、ざわめきが戻る。
「最後ちょっと良くなかったか?」
「偶然だろ」
「でもゼロにしては……」
ノエリアは息を切らしながら立っていた。負けた。完敗だ。
けれど、不思議と最初ほど惨めではなかった。
ジェイドが木剣を戻し、ノエリアの前に立つ。
「反応は悪くない」
「……え?」
「考えすぎると遅い」
それだけ言って、背を向ける。
ダニーが笑いながら駆け寄ってくる。
「褒めてるぞ、それ」
「そ、そうなの?」
「かなり珍しい」
ハイジが肩を叩く。
「最後よかったじゃん」
思ったより強く叩かれて、ノエリアがよろける。
「痛っ」
フィアが近づき、そっと手を差し出した。
「立ってたねぇ」
その言葉が、胸に残る。
勝てなかった。
才能もまだない。
でも、逃げずに立っていた。
それだけで、少しだけ自分を許せる気がした。
そのとき、訓練場の二階回廊から誰かの視線を感じる。
見上げると、赤制服の少女――エイミーがこちらを見ていた。
表情は読めない。
だが、ノエリアと目が合うと、静かに背を向けて去っていった。
何だったのだろうと考える間もなく、グレタの声が響く。
「次の組。ハイジ、前へ」
「きた!」
炎のような笑みを浮かべ、ハイジが飛び出していく。
騒がしく、まぶしく、忙しい学園の朝。
その中でノエリアは、木剣を握った手をそっと見つめた。
胸の奥の小さな鼓動は、まだ消えていなかった。




