第二十話 森の奥にいる人
妖精の森から音が消えた。
さっきまで聞こえていた小川のせせらぎも、木々のざわめきも、妖精たちの歌声も。
まるで森そのものが息を潜めているようだった。
ノエリアは無意識に大剣の柄を握る。
目の前にはカリン。
相変わらず楽しそうに微笑んでいる。
けれど前回ローズガーデンで会った時よりも、どこか危うい空気をまとっていた。
「何しに来たの」
ジェイドが一歩前へ出る。
低く、警戒を隠さない声だった。
カリンは肩をすくめる。
「だから言ったじゃない」
そしてノエリアを見る。
「会いたかったの」
「私は会いたくなかった」
思わず即答していた。
カリンが一瞬だけ目を丸くする。
そして吹き出した。
「前より言うようになったね」
ノエリア自身も少し驚いていた。
入学した頃なら絶対言えなかった。
でも今は違う。
怖い。
それでも言いたいことは言えるようになってきた。
カリンはどこか嬉しそうだった。
「そういうところ、好きだなぁ」
「やめて」
「ひどい」
ダニーが呆れる。
「敵と仲良く会話すんな」
「私だってしたくてしてるわけじゃないよ!」
フィアは少し前へ出た。
表情は穏やかだが、瞳だけが真剣だった。
「カリンちゃん」
「なぁに?」
「ほんとは何がしたいの?」
その問いに。
カリンは少しだけ黙った。
いつもの軽い笑顔が一瞬消える。
本当に一瞬だけ。
でもノエリアは見逃さなかった。
「……」
「みんなを闇に落としたいの?」
フィアが続ける。
「それとも、助けたいの?」
森に風が吹く。
カリンは小さく笑った。
でもその笑顔は少し寂しかった。
「どっちだと思う?」
フィアは首を傾げる。
「わかんない」
正直だった。
カリンは目を細める。
「だよね」
そして話題を変えるように、くるりと回った。
黒紫のスカートが揺れる。
「でも今日は戦いに来たわけじゃないの」
「信用できない」
ジェイドが即答する。
「だよねぇ」
カリンは楽しそうだった。
◇
そのとき。
ベルが急に固まった。
肩の上で震え始める。
『……いる』
ノエリアが振り向く。
「ベル?」
『近い』
声が震えている。
『すごく近い』
ジェイドも気づいた。
剣を構える。
ダニーも戦闘態勢へ入る。
フィアだけが静かに周囲を見ていた。
森の空気が変わっている。
冷たい。
嫌な感じだ。
そして――
木々の奥。
ゆっくりと人影が現れた。
長い黒髪。
黒い制服。
年齢は十代後半。
少女というより、もう大人に近い。
その姿を見た瞬間。
ベルが青ざめた。
『うそ……』
カリンですら表情を変えた。
ノエリアは息を呑む。
知らない人だった。
でも。
なぜか目が離せない。
その人はゆっくり歩いてくる。
森の妖精たちが逃げていく。
花がしおれる。
周囲の空気まで重くなる。
それなのに。
不思議だった。
怖いのに。
どこか悲しそうだった。
「エスター」
カリンが呟く。
ノエリアは目を見開く。
その名前を知っている。
生徒会長エイミーの姉。
最もグランドリミィジュに近かった存在。
十五年前の事件の中心人物。
そして現在の敵組織の象徴。
エスター。
その本人だった。
◇
エスターは足を止める。
赤い瞳がゆっくりノエリアを見る。
ただそれだけなのに。
息が苦しくなる。
圧倒的だった。
今まで会った誰とも違う。
強さとか技術とか。
そういう次元ではない。
存在感そのものが違う。
「……この子」
エスターが呟く。
カリンが頷く。
「そう」
エスターはノエリアを見つめる。
長い沈黙。
そして。
「似てる」
ぽつりと言った。
ノエリアは困惑する。
「え?」
誰に?
聞こうとした。
だがエスターは答えない。
代わりにベルを見た。
その瞬間。
ベルが震えた。
『エスター……』
エスターの表情が少しだけ揺れる。
本当に少しだけ。
「久しぶりね」
ベルは何も言えない。
ノエリアは初めて見る。
いつも元気なベルが。
こんな顔をするのを。
◇
しばらくの沈黙。
そしてエスターは視線を空へ向けた。
「時間ね」
カリンが頷く。
「うん」
ジェイドが前へ出る。
「待て」
だがエスターは見向きもしない。
「まだその時じゃない」
静かな声だった。
なのに。
誰も追えなかった。
本能が告げている。
今戦ってはいけない。
まだ勝負にならない。
そんな圧倒的な差を。
全員が感じていた。
エスターは最後にもう一度だけノエリアを見る。
その目は敵を見る目ではなかった。
まるで。
何かを探しているようだった。
「あなたは――」
言いかけて止まる。
そして微かに笑った。
悲しい笑顔だった。
「……いえ」
そのまま背を向ける。
カリンもついていく。
去り際。
カリンが振り返った。
「またね、ノエリアちゃん」
今度は本当に楽しそうに笑う。
そして二人の姿は森の闇へ消えた。
◇
残されたノエリアたちは動けなかった。
最初に口を開いたのはダニーだった。
「なんだよ今の……」
ジェイドも険しい顔をしている。
「強すぎる」
短い言葉。
だが重い。
フィアは少しだけ俯いていた。
「悲しそうだったねぇ」
誰も否定できなかった。
敵だった。
危険な存在だった。
それでも。
エスターから感じたのは憎しみだけではなかった。
ノエリアはベルを見る。
ベルはまだ震えていた。
「ベル」
『……』
「知ってるんだよね」
ベルは黙る。
長い沈黙。
やがて。
小さく頷いた。
『うん』
ノエリアは待った。
ベルが自分から話すのを。
しばらくして。
ベルは震える声で言った。
『昔ね』
『ぼく、エスターのパートナー候補だったんだ』
森の風が止まる。
ノエリアたち全員が固まった。
物語の核心へ繋がる過去が。
ついに動き始めようとしていた。




