第十五話 「星の声が聞こえる場所」
少女の声が聞こえた。センはとっさに振り替える。
そこにいたのはシトリだった。神官装束を身にまとい、コロンを抱きかかえている。
センは口を開けたが、うまく声が出せなかった。
そんなセンに、シトリは不安げな目を向ける。
「セン様? どうしました? 大丈夫ですか?」
シトリはセンのそばに寄ると彼の手を握り、心配そうに目を見つめる。
「おいおい、なんだ急に」
「だってセン様、泣いているじゃないですか」
その時まで、センは自分が泣いていることに気づかなかった。
そうか。俺は今、泣いているんだ。
「大丈夫だ。なんでもないさ」
センは手の甲で涙をぬぐう。
「じゃあ、どうして涙が……」
「さあな。なにしろ最後に泣いたのがいつだったかわからんから、わけもなく涙が流れてきても不思議じゃないさ。それより、お前はどうなんだ。もう動いても平気なのか?」
「はい。むしろいつもより体が軽いくらいです」
「そうか。なら、少しつきあってくれないか。行きたい場所があるんだ」
「わかりました。お供しますね」
シトリはセンの隣に並ぶ。彼女の様子を見て、センは少し何か引っかかるものを感じた。
「どうかしましたか?」
「……いや、なんでもない。ところで腹は減ってないか?」
「大丈夫です。朝ご飯をしっかり食べてきましたから」
そうか、とセンは歩き出す。歩きながら、わずかな不安を感じる。
とても重要な何かを見落としているような気がしたからだ。
センは歩みを止め、シトリのほうを見る。
「セン様?」
シトリは首をかしげる。不思議そうに眼を瞬かせる。
「やっぱり、なんでもないか」
センは再び歩き出す。歩数を重ねるにつれ、彼の心から不安の影は消えていった。
結局、センは気づかなかった。シトリも気づかなかった。
気づけなかった。
シトリの首にかけられていた、種の御守りが失われていることに。
センは海を目指して歩いた。記念公園を出て、大通りを抜け、運河のそばを通る道を歩き続ける。運河では資材や貨物を積んだ商船が忙し気に行き交っていた。港へ出ると、立派な造りの客船が停泊していた。貴族の邸宅を重箱のように重ねたという感じの巨大な船だ。
「すごく大きな船ですね。あれが本当に海を渡るなんて、信じられませんよ」
「大祭の見物客を乗せてきたんだろう。あれも霊力で動いているはずだ。神都は霊力の源泉でもあるから、ここで補給しているんだろう」
「便利なものですね」
「便利といえば、列車もなかなかのものだぞ」
「レッシャ、ですか?」
「神都の領域を回っている、長くてでかい車が蛇みたいにつながった乗り物だ。ここの神都の領域はユヅルハよりも広いからな、移動するにはなにかと便利だそうだ。聞いた話だと一度に百人くらいは乗れるらしいぞ」
「それはまたすごいものですね。でも、そんな乗り物までつくるなんて、どうして神都の人たちはそんなに動きたがるんでしょうか」
「さあな。人やら物やらを大急ぎで運ぶことにどんな意味があるかなんて俺にもよくわからないさ。でもまあ、ここの連中にとっては大事なことなんだろうよ」
やがて二人は、港のそばにある小さな海岸線に出る。
センは砂浜の上に腰を下ろし、遠くに見える水平線をじっと見つめた。
シトリはセンの傍らに立ち、同じように水平線へ目を向けた。
波の音が、沈黙を埋める。
ふと思いついたように、センは尋ねた。
「お前はどうしてユヅルハを守りたいんだ」
「どうしてって、故郷を守りたいと思うのは当然のことじゃないですか」
「俺には故郷なんて呼べる場所はない。だから故郷を守りたいって気持ちはわからない。だけど、何かを守りたいって気持ちは、まあ、わかってるつもりだ」
「守りたいものがあるんですね」
「あったんだ」
センは目を閉じる。一瞬、まぶたの裏に水平線の残滓のような暗い線が浮かぶ。
「俺は、俺がいた里の守り神を、守りたかったんだ」
波の音が、おだやかに響く。
「安心しました」
センは目を開け、隣に立っているシトリの顔を見る。
「セン様が、その神様のことを、嫌いじゃないってわかりましたから」
「……なあ、シトリ。少しだけ眠ってもいいか」
「もちろんです。そうだ。せっかくですし、ひざ枕でもしましょうか?」
「よせよ。でも、そうだな。よかったら歌ってくれ。お前の歌声を、ゆっくり聞いていたい」
わかりました、とシトリは笑みを浮かべる。センは仰向けに寝転がり、目を閉じた。
波の音にシトリの歌声が重なる。彼女が歌うのは、やはり『シキ』だった。皇国の民ならだれもが歌えるであろう、普遍的な歌だ。
だからだろう。この歌を聴いているとき、センは安らぎを感じることができた。
この歌が歌われる場所が、時代が、自分がいるべき場所であり、時間であると信じることができるからだ。
そう。この歌が生きている世界が、自分が生きている世界なのだ。
気がついた時、彼は浜辺に立って、一人で水平線を見つめていた。
これは夢だとすぐに気づいた。現実の自分は浜辺に寝転がり、シトリの歌を聴いているはずだ。きっと知らないうちに眠ってしまったのだろう。
ただ、不思議なことに、体の感覚は現実のそれと全く変わっていなかった。
意識は夢の世界であると主張し、感覚は現実の世界だと主張している。
人は、水平線に立つことができるのか。
誰かがセンに問いかける。
その問いに、センは答えられない。
ハチ。
その名を口にした時、センは目を覚ました。
横になっているセンのそばで、シトリは座ったまま眠っていた。
センは体を起こし、現実の水平線を見る。
じきに日が沈み、夕刻の鐘がなるだろう。
それまではここにいてもいいか。
センは目を閉じ、波の音に心をゆだねた。




