第十四話 「存在証明」
地面に書かれた文字を見て、センは首をかしげる。
「……なんだ、これ」
「え? なにって、これが私の名前やんか。福原椿って。このくらいの字やったら学校で習っとるやろ?」
「そうなのか。俺は途中で辞めたから、よくわからないが」
「あ、あー、えっと、その、ごめんなさい……」
「あやまるなよ。今となっちゃどうでもいいことだ。それより」
改めて、センは地面に書かれている文字を見る。
どうも神聖文字に似ているような……
しかし姓があるってことは、やっぱり貴族だったのか。
「フクハラ家ってのは、家格のある家なのか?」
「カカク? えっと、うちは公営住宅やから高くはないと思うけど」
「どうもお前の言ってることはよくわからないな。でもまあ、いい名前だとは思うぞ。たしかツバキって、花の名前だったよな」
「そうそう。えへへ、ありがとね。私な、この名前も椿の花も好きなんよ。でもなあ、子どもの頃はようからかわれとったんやで。ほら、椿の花っていろんなとこに咲いとるから、やっぱりいろんなところに落ちるやんか。で、それを見たガキどもがアホなこといいながら私を指さしてケラケラ笑いよるんよ。まあそんな連中はかたっぱしからボコボコにしばいたったけど」
「いい心がけだ。人の名前をバカにするやつは全力でぶちのめすべきだ」
「せやなあ。ところでセンさんの」
そう言ったところで少女の腹の音が鳴った。
「あはは。これはこれは、お見苦しいところを。いや、お聞き苦しいところを」
「なんだ、腹がへってるのか?」
「いやいや全然まったくそんなんちゃうから! 私今ダイエット中やし、なんやおにーさんのほうから肉のめっちゃおいしそうな匂いがしとるとか、そんなん全然関係ないし!」
そういえば、とセンは懐に入れていた肉巻きの包みを思い出す。
「もしかしてお前、これの匂いにつられて俺に話しかけてきたのか?」
センは肉巻きの包みを取り出す。
「いや、ちゃうんよ。ちゃうんやけど、けど……」
少女の物欲しげな目を見て、センはからかうように言う。
「そうか。なら遠慮なく」
包みを広げると、食欲をそそる炭火焼の香ばしい匂いが広がった。
少女は「あぁ……」と口を開き、今にもよだれをたらしそうな表情を浮かべる。
「冗談だ。欲しけりゃやるよ。さっき食ったところだからあまり腹がへってないんだ」
「ええの? ホンマに? ありがとー! ほな遠慮なくいただきまーす!」
少女はセンから包みを受け取り、大きく口を開けて肉巻きにかぶりついた。そしてすぐに満面の笑みを浮かべる。
「んーっ! うまい! これぞ肉って感じやなぁ。やっぱ人間、うまいもん食うてこその人生やで。おにーさんもそう思わへん?」
「その通りだ。生きるために飯を食うんじゃない。飯を食うために生きているんだ」
「おお、なんか名言っぽいなぁ。センさんもこれ食べたらよかったのに。悩んどることがあっても、おいしいもん食べて元気つけたら、たいがいのことはうまくいくで。ほら」
少女は食べかけの肉巻きをセンに差し出す。
「お前にやったものだ。お前が全部食べればいいさ」
「いやぁ、なんか申し訳ないなぁ。私だけおいしい思いして」
「気にするな。俺がやったことなんだから」
そう。
結局は自分の意思でやったことなんだ。
ここまで来たことも。ここにいることも。
「お前のおかげで、少しすっきりした気がするよ」
「え?」
「今までやってきたことが正しかったかどうか、ずっと気になっていた。でも、そんなこと考えたって仕方ない。誰に強いられたわけでもない。結局は俺の意思で決めたことなんだから。それなのに悩んだり迷ったりするのは卑怯ってもんだ。俺は俺の意思を見失わず、進めるところまで進めばいい。それがわかった気がするんだ」
「ほうほう。詳しいことはようわからんけど、センさんがええかんじに吹っ切れたようでよかったわ。うんうん、よかったよかった。まあ、私はお肉ごちそうになっただけやけど」
あっはっは、と少女は楽しそうに笑う。
「お前、よく変わってるって言われないか?」
「んー、そうでもないよ。私の学校の女子って、だいたいみんなこんな感じやから」
「なんだ。学生だったのか」
「学生ゆーか女子高生やな。ほれほれ、この通り」
少女はくるりと身をひるがえし、裾をふわりとたなびかせ、ふふんっと得意げに笑う。
センにはその仕草の意味がよくわからなかったが、それでも少女が生き生きとしていることはよくわかった。
「って、そーや! 五限の日本史、小テストするって言うとった。あのくされメガネ、不合格になったら土日潰すレベルのペナルティ出しよるから勉強せんと……って、もうチャイム鳴っとるやん! うっそ、もう昼休み終わったん? ヤバいヤバい。学校出とるってバレたらまた指導くらってまう。はよ帰らんと」
少女は慌てて走り出すが、ふと思い出したように立ち止まり、センのほうへ振り返る。
「センさーん! 話しできて楽しかったわー! またどっかで会おなー!」
少女は元気よく手を振り、センも片手を上げてこたえた。少女はとびきり明るい笑顔を見せると、再び前を向いて走り出した。その姿はどんどん遠ざかり、忙し気に広場を行きかう人々の姿の向こう側へ消えていった。
「また会おう、か」
妙な雰囲気のやつだったが、悪いやつじゃないな。
そんなことを考えながら、センは旅館へ向かって歩き出す。
少女の明るい声と、笑顔と、どこか現実離れした空気を思い出しながら。
しかし、少し進んだところでセンは立ち止まる。
この時、彼は気づいた。
少女の名前を、思い出せないことに。
たしか、姓があったはずだ。それで名前はたしか……そう、花だ。花の名前。
そこまでは思い出せる。しかし、そこから先は思い出せない。
得体のしれない焦りが微かな恐怖をともなってじわじわと広がる。それを反映するかのように、さっきまでは鮮明に思い出せた少女の姿も、不確かな幻影のように崩れ、思い出せなくなっていた。少女と交わした会話も、思い出せない。
まるですべてが白日夢だったかのように。
だが、少女は確かに存在していた。
その証拠に、センの懐から肉巻きの包みが消えている。
それに名前を地面に書いていた。
そうだ。名前だ。
センは少女が名前を書いた場所へ走る。
しかしそこは、すでに多くの人々の足跡で踏み潰されていた。
もはやそこには文字の断片すら見つからなかった。
人々のざわめきが、センの耳に響く。
広場で遊ぶ子どもたちの声。
その様子を見守りながら談笑する親たちの声。
出店の準備に勤しむ商人たちの声。
陽気な酔っぱらいのたわ言と、憲兵の苛立った怒鳴り声。
人々の声、足音、姿、影、そして名前。
センは彼らの名前を知らない。
彼らもセンの名前を知らない。
センさーん。
また会おなー。
少女の声がよみがえる。ありふれた声だ。
けれど明るくて、暖かくて、命の輝きを感じさせる、生きている人間の声だ。
センはその場に立ち尽くす。
どうして、忘れてしまったんだ。
胸が締めつけられ、息が詰まり、目の奥が熱くなって、心臓の鼓動が頭に響く。
センさん。
その時、センは少女の声を聞いた。




